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KG/GP 社会学批評 別冊(共同研究成果論集)

KG/GP 社会学批評 別冊 共同研究成果論集
山北輝裕・谷村要・稲津秀樹・吹上裕樹 編
 
   
目次
はじめに
―大学院GP時代の共同研究と成果刊行にあたって―
稲津 秀樹
吹上 裕樹
   
<パート1> ストリートとヴァンダリズム
  責任編集:山北 輝裕
1-1.  サブカルチャーの現場としてのストリート/ロードサイド
―首都圏におけるグラフィティ文化の参与観察を踏まえて―
飯田 豊
1-2.  型枠解体屋の民族誌
―建築現場における機械的連帯の意義―
打越 正行
1-3.  <社会学的映像実践>を考える
―野宿者/ストリートを記録し使用することを題材に―
山北 輝裕
   
<パート2> 他者と出会う場としてのジモト
  責任編集:谷村 要
2-1. 商店街における地域イメージの形成
―観光地化する大阪「新世界」を事例として―
八木 寛之
2-2. 新たなつながりを創出する情報社会の旅行コミュニケーション
―コミュニティオブインタレストと地域コミュニティの出会い―
岡本 健
2-3. 「祭りのコミュニティ」による「出会い」の可能性
―「ハルヒダンス」と「アニメ聖地」を事例として―
谷村 要
2-4. ジモトへの回帰と挫折
―企業城下町で起きた大学生殺人事件をめぐって―
川端 浩平
2-5. グローバリゼーションのなかでの地元志向現象
―社会的排除モデルと社会的包摂モデルのあいだ―
轡田 竜蔵
   
フィールド・コラム①: 「ジモト」/「地域」のひとコマ
濱田 武士,川端 浩平,木原 弘恵,伊藤 康貴,谷村 要,尾添 侑太,佐野 市佳
 
   
<パート3> 移動する人びと/エスニシティをめぐる場と空間の現在
  責任編集:稲津 秀樹
3-1. 移動する人びと/エスニシティのフィールド調査における「可視性の誤謬」
―都市・地域社会学のトランスナショナリズム論の再検討から―
稲津 秀樹
3-2. 多文化接触地域のフードビジネスにみる人々の関係性
―ホスト‐ゲスト関係とゲスト‐ゲスト関係―
安井 大輔
3-3. イースト・サンディエゴの空間誌序説
―空間/場所の比較社会学のためのノート―
岩舘 豊
3-4. トランスナショナルなサウンド/音楽の場
―越境するペルー移民と音楽―
エリカ・ロッシ
   
フィールド・コラム②: 「アジア」/「アフリカ」のひとコマ
中川 千草,葛西 映吏子,白石 壮一郎,傲 登,松村 淳,金 太宇
 
   
<パート4> 文化・承認・コミュニケーション
  責任編集: 吹上 裕樹
4-1. 芸術文化政策における正当性のゆらぎ
―あるオーケストラの存廃問題をめぐって―
吹上 裕樹
平田 誠一郎
4-2. ヒロシマ・ノワール
―「ヒロシマ」をめぐる政治文化論再考のための覚書―
東 琢磨
4-3. 「相互理解」という理想
―「コミュニケーション」が崩れるとき―
尾添 侑太
4-4. 「ひきこもり」の当事者たちのセクシュアルな語り
―「ひきこもり」の自分史・補遺―
伊藤 康貴
   
後記 山北 輝裕
谷村 要


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posted on 2011-03-18    

【報告】ANU Japanese Studies Graduate Summer School 2011


昨年度も本研究科から4名が参加したセミナー(JSGSS)が、今年もオーストラリア・キャンベラで開催されました。今年は、8名の院生・研究員が参加し、3名が本セミナーで、5名がプレセッションで報告しました。
(関連URL http://japaninstitute.anu.edu.au/jsgss/)


apw2011


●開催期間:2011年2月1日(火)~3日(木)

●場所:オーストラリア国立大学(豪州キャンベラ)

●参加レポート:

今回私は、大学院GPの国際プログラムの一つとして、ANU Japanese Studies Graduate Summer School 2011(以下、JSGSS)に参加し研究発表を行った。以下ではJSGSSの概要、準備、研究発表の成果について報告したい。

JSGSSは、Australian National Universityを中心にした日本研究者が集う学際的プログラムである。これまで、様々な学問分野から若手研究者が集まり、意見交換やネットワークづくりがなされてきた。非西欧圏における追悼・慰霊に関心をもつ私は、日本だけでなく中国・台湾・韓国などの東アジアにおける追悼・慰霊に関心をもつ研究者と情報交換できればと考え、参加することにした。

すでに国際ワークショップでの英語発表を経験していることもあり、準備段階としてそこまで周到な準備を行ったわけではない。しかし発表要旨と300語程度のペーパーを出すにあたり、GP事務室の川端氏やテランス氏に助けて頂いた英文チェックは大変心強かった。また現地までの交通・宿泊等のコーディネイトについてはGP事務室からの支援があったので、JSGSSで会う可能性のある研究者の業績チェックなどに時間を割くことができたことは大変有り難かった。

私が研究発表したのは3日目であるが、当日の個人発表の時間だけでなく、その前後のインフォーマルな場で様々な情報交換や、意見のやり取りをすることができ大変貴重な時間を過ごすことができた。特に2日目に基調講演を行った、ハワイ大学社会学部のPatricia Steinhoff教授との出会いは望外の幸運であった。というのは、昨年私は公共性と宗教というテーマのもと、Robert Bellahの市民宗教論に取り組んでいたが、彼女はハーバードでのBellahの教え子であり、私の研究テーマに多大な関心を寄せ、今後の研究方針についてのアドバイスとともに勇気づけてくださった。

またセミナー3日目で彼女が講師となって行ったワークショップでは、社会学と地域研究という学問分野の対立と協同がテーマとしてとりあげられ、今後のキャリアのなかで自分がどのような立場から研究を発信していくのか、という問題についての考えを明確にすることができた。Steinhoff教授とは、その後メールのやり取りのなかで私の研究テーマに関連する研究者を紹介してくださるなど、連絡を続けることができている。

このように、研究発表以外の場での様々なコミュニケーションのなかで多くを得たことが、今回JSGSSに参加したことによる成果だったように思う。


文:福田 雄(関西学院大学大学院社会学研究科 博士課程後期課程)


※より詳しい報告は「Japanese Studies Graduate Summer School 2011
(オーストラリア・オーストラリア国立大学)に関する報告」
をご覧ください。

posted on 2011-03-17    

【ギャラリー】二つのフィールド―大学院生と契約社員

写真:オランダ-キューケンホフ庭園内

写真:オランダ-キューケンホフ庭園内


二つのフィールド―大学院生と契約社員(2010年8月撮影、2011年3月掲載)

Asymmetry。

最近、本の中で出会ったお気に入りの言葉だ。知っているようで知らなかったこの言葉をみたときにハっとさせられる思いがした。

一般的に、Symmetry(対称性)はよく見かける。それは中央の垂直軸に重点が置かれており、対象軸の両側に同等の要素が配置されている。インドのタージマハルや、もっと身近なところでは万華鏡を覗いたときに見える結晶がそれにあたる。それらはバランスの取れた調和している状況を想起させる。

私の日常生活はどうだろうか。職場、学校や家族の中のあらゆるところでバランスを取ることを求められてはいないだろうか。

「WorkとLifeのバランスをいかに保つか。」

この問いは、2008年に前職を離れてから私の頭でずっとモヤモヤしている問題だ。私は現在、大学院生でありながら契約社員でもある。いわば自分のフィールドは二つある。両方を行ったり来たりする日常は、私にとっては格闘の毎日だ。

大学院では、近年の雇用環境の変化を背景にした職業移動に関する問題を考察するために計量的なアプローチを学んでいる。統計学の基礎的な知識を踏まえて、数的データを分析する力を身につけることが修士課程での私の課題だ。

一方、今の私の業務は、独立や開業をする人々へのインタビューである。この1年半でおよそ80名以上の人と出会い、言葉を交わしながら、実際の転職(職業移動)の現場に関わりをもっている。インタビューというと聞こえは良いかもしれないが、実際は対象者との距離感が掴めず悪戦苦闘している。というのも、一回限りの訪問ではなく、継続的に実施しているため、良くも悪くも、相手との関係は近くなることもあれば、遠ざかってしまうこともある。また、被雇用を離れた人の悩みや生計を立てるために売上を確保するプレッシャーは想像以上に厳しいものであり、容易には計り知れない。廃業せざるを得ない人々とも関わっている。それは決して数的データでは見えてこない社会の生の姿である。大規模調査では「欠損値」として処理されてしまう出来事かもしれない。しかし、それは今、日本で起きている職業移動の一つの現実であり、結果である。WorkとLifeのバランスの取れたシンメトリーのような状況では全くない。

私は二つのフィールドに対して、知らず知らずのうちに量的/質的なアプローチを行っている。ただ、両フィールドを繋ぐ道は今のところハッキリとは見えていない。しかし、大学院で計量的なことがほんの少し分かり始めたことで、逆に、計量では測れないことが浮き彫りになりそうな気がしてきている。「量的/質的の両方を横断することで見えてくる世界」、そこに社会学をするオモシロさを感じている。率直に言って、私の中で、「計量的なアプローチ」を取ることのハードルは依然として高い。しかし、質的/量的なアプローチの「間」にこそ社会の姿があると思う。それはおそらくシンメトリーではない世界だろう。色や形は不揃いではあるが、バランスが取れて成り立っているチューリップ畑の庭園の写真は、フィールドの縮図のように感じる。どのようなアングルからそれらを眺め、解きほぐすのか。そして何を明らかにしたいのか。フィールドから見えてくる微かなシグナルを頼りに先に進みたいと思う。

撮影・文:仲修平(関西学院大学大学院社会学研究科 博士課程前期課程)

■ストリート・ギャラリー(フィールドから見えるもの)

posted on 2011-03-17    

KG/GP 社会学批評 第4号

KG/GP 社会学批評 第4号    
     
目次
     
終刊にあたって 古川 彰 PDF
112KB
     
<書評論文>
     
当事者として「ひきこもり」と「社会/個人」を問う視点
-「実存的問題」と「社会的問題」のあいだで-
伊藤 康貴 PDF
石川 良子 『ひきこもりの〈ゴール〉―「就労」でもなく「対人関係」でもなく』(青弓社、2007年) 392KB
     
「読む人」から「買う人」へ―「技術」から考える読者分析の地平― 山森 宙史 PDF
和田 敦彦『メディアの中の読者―読書論の現在』(ひつじ書房、2002年) 352KB
     
インタラクションとしての近代住居空間
―ドメスティケーションの諸水準でみる「住居」―
松村 淳 PDF
祐成 保志 『〈住宅〉の歴史社会学―日常生活をめぐる啓蒙・動員・産業化』(新曜社、2008年) 323KB
     
政策過程における公論形成について 金 太宇 PDF
湯浅 陽一『政策公共圏と負担の社会学―ごみ処理・債務・新幹線建設を素材として』(新評論、2005年) 370KB
     
災禍と儀礼とリスク社会―「浮かばれない」死者たちの行方― 福田 雄 PDF
P. Post, R. L. Grimes, A. Nugteren, P. Pettersson & Zondag Disaster Ritual: Explanation of an Emerging Ritual Repertoire.
(Peeters Publishers, 2003)
381KB
     
トラウマへのまなざし
―忘却される出来事の継承のあり方をめぐって―
濱田 武士 PDF
宮路尚子『環状島=トラウマの地政学』(みすず書房、2007年)
宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店、2010年)
408KB
     
文化区分の形成とその変容
―ハイカルチャー研究における新たな課題を問うために―
吹上 裕樹 PDF
R. W. レヴィーン『ハイブラウ/ロウブラウ―アメリカにおける文化ヒエラルキーの出現』(常山菜穂子訳、慶應義塾大学出版会、2005年) 344KB
     
<特集> グローバリゼーション、移動/定住
     
グローバリゼーション、移動/定住に関しての記述課題  白石 壮一郎 PDF
348KB
報告アブストラクト(山北輝裕、安達智史、稲津秀樹、谷村要、轡田竜蔵)  
     
コメントとリプライ
(コメント:塩原良和、五十嵐泰正)
(リプライ:山北輝裕、安達智史、稲津秀樹、谷村要、轡田竜蔵)
  PDF
4049KB
     
総括―見え難くなっている領域を調査すること 川端 浩平 PDF
  139KB
     
 
     
大学院教育プログラムとしての書評誌刊行 阿部 潔 PDF
  153KB
     
試行錯誤の顛末―書評誌編集部から 白石 壮一郎・
川端 浩平
PDF
  218KB
     
* 記録 *
     
大学院GP 大学院生・研究員による研究活動(2010年6月~12月)   PDF
212KB
     


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posted on 2011-03-17    

【ギャラリー】 二分化された廃棄物回収業

写真1:正規廃棄物回収者

写真1:正規廃棄物回収者


写真2:無認可廃棄物回収者

写真2:無認可廃棄物回収者


二分化された廃棄物回収業 (2010年8月撮影、2011年1月掲載)

廃棄物回収者は、市場メカニズムの下で廃棄物の回収、再資源化にとって重要な役割を担い、中国の現代的な都市の建設においては不可欠な存在であったが、彼らに対する社会的評価はたいへん低いというのが現実である。都市の出身者は、社会的地位が低いと認識される廃棄物回収業を回避しがちであったため、瀋陽市で廃棄物回収業に従事する人は農村出身者が圧倒的に高い割合を占めていた。農村出身である回収者は、都市社会において相対的に力の弱い立場に置かれており、都市住民に差別されたり、社会的に排除されたりする場合がある。

2006年、瀋陽市における廃棄物回収者に対する身分認可制度の導入は、廃棄物回収者を「正規部門従事者」と「非正規部門従事者」に二分化し、「非正規部門」に対する排除を本格的に行った。これによって認可された正規回収者の多くは、都市出身の失業者の再就職問題を解決する方策として優先的に採用された都市出身者であった。その結果、既存の大部分の農村出身である回収者は正規の身分が得られず、その活動が違法とされる立場に立たされることになってしまった。

写真の中で正規回収者の三輪車には「瀋陽市再生資源管理事務所」という文字が印刷されており、身分の正統性が保障されている。一方、農村出身である無認可の回収者は関連機関による厳しい取り締まりを回避するために、白昼の回収を取り止め、早朝と夕方のみ三輪車で住宅街を回りながら正規回収者より少し高い値段で資源物を回収している。このような背景のもと、農村出身の回収者の境遇は明らかに不利なものとなり、彼らの収入は常に不安定な状態に置かれている。このままでは生活が破綻してしまう可能性もじゅうぶんある。この問題にたいする社会的支援の方策はいまだ立っていない。

こうした構造的な問題によって、少なからぬ社会的矛盾やトラブルが引き起こされており、それらをきちんと解決することは社会的公平と正義を護り、社会の調和と安定を保たせる上でも必要不可欠である。

撮影・文:金太宇(関西学院大学大学院社会学研究科 博士課程後期課程)

■ストリート・ギャラリー(フィールドから見えるもの)

posted on 2011-01-21    

【ギャラリー】 兼業米農家の農作業

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兼業米農家の農作業 (2010年9月撮影、2010年12月掲載)

私たちが普段何気なく食べている食べ物にも、当然のごとくそれを作っている人々が存在する。当たり前のように店頭に並んでいる食品にも、それを生産している人々がいる。しかし、消費者が生産者の姿を具体的に思い浮かべることは、ほとんどない。スーパーなどで5kg、10kgと袋詰めされた白米を眺めたとしても、実際に米作りに携わった経験がなければ、それがどのような過程を経て店頭に並んでいるのか、思い浮かべることはそもそも難しい。たいていは、店頭に並んでいるもののなかから適当なものを選び、そのままレジへ持って行ってしまうだろう。

耕地面積が10反(1ヘクタール)程度の兼業農家にとっては、米作りはもはや慣習的な行為となっている。「田んぼがあるから作る」わけであり、自分たちが消費する米(飯米)を作るついでに農協などに卸す米も作るわけである。もちろん、どれだけの米を作るかは行政による政策的な介入がある。田んぼが10反あったとしても、実際に作付けしている面積はその半分程度である。しかも、かつてと比べて米価が急落している現状においては、いくら米を作ったとしても、利益は余り無い。ただ代々受け継いできた田んぼがあるから作っているのである。

トラクターや田植え機、コンバインなど農業機械の導入により、稲作にかける人的な労力は激減した。代掻きや田植え、稲刈りのときに田んぼ一枚にかける時間は、だいたい2時間もあれば充分である。作業する人間も機械を運転する人間を含めて3人もいれば問題ない。本業が休みの週末のときに作業をすればいいわけだから、兼業でも十分にやっていけるというわけだ。もちろん台風などの天候に左右され、平日に有給をとって作業をすることもあるけれども。

機械があるからといっても、手作業で苗を植え、鎌を持って稲を刈り取る必要が無くなったというわけではない。もちろん、工夫をすれば機械だけで済ませてしまうことも可能だが、コンバインが入らない4つ隅に苗を植えなかったり、(機械操作上必然的に生じる)欠株のところにうせ苗(手植えによる補植、「追い苗」とも)をしない田んぼは「かっこ悪い」。たとえそこに植えたとしても、全体的な収穫量は余り変わらないのだが、「みっともない」から植える。田植え用のタイトなゴム長靴を履いて田んぼに入り、欠株のところを確認しながら手作業でうせ苗を植える。4つ隅で田植え機で植え切れなかったところも手で植える。でも4つ隅はコンバインがうまく入らないから、秋の稲刈りのときには、手で刈ることになる。農作業の機械化が進んだとしても、まだまだ手作業がなくなることは無いだろう。

農協などに卸す米は、コンバインで刈り取られた後は、軽トラックの荷台に載せられたモミを入れる袋に入れられ、その地域のカントリーエレベーターに運び込まれる。この施設で乾燥・貯蔵・精米され、各地に出荷されるのである。

撮影・文:伊藤康貴(関西学院大学大学院社会学研究科 博士課程前期課程)

■ストリート・ギャラリー(フィールドから見えるもの)

posted on 2010-12-17    

【ギャラリー】 塩を焼く民

写真1:塩を売る人と買う人。

写真1:塩を売る人と買う人。

写真2:小さなバケツで海水を運ぶ。

写真2:小さなバケツで海水を運ぶ。

写真3:シートを利用した塩田。

写真3:シートを利用した塩田。


塩を焼く民 (2008年2月撮影、2010年11月掲載)

西アフリカ・ギニアのマルシェ(市場)にモノはあまりないが、人はあふれかえっている。売りたい人、買いたい人、ただそこに居る人、通り過ぎるだけの人。その合間をすり抜けるようにマルシェの外れまで進むと、塩を買い求める近所の女性たちが群がっている一角にたどりついた。このマルシェで売買されている塩は、30キロほど離れた場所から運ばれてきたものだという。そこで得た情報を頼りに、塩をつくる様子を見に出かけた。

ギニア沿岸部での製塩業は、農業や漁業を組み合わせた複合的な生業形態に含まれるものであり、乾季(11月から4月)のあいだだけ営まれる。その方法の一つとして、マングローブを燃料にし、海水を煮詰めるという方法がある。まず、海水を土と藁でろ過し、不純物を取り除く。次に、釜で煮詰め、塩分濃度の高い「かん水」を作る。この作業を何度か繰り返しながら、かん水を煮詰めてゆく。火を絶やさないように、また沸騰させないように加減しながら、ひたすら薪をくべつづける。ここまでで、3日かかる。塩の結晶ができたら、それを天日干しする。つきっきりの作業となるため、「塩の番人」たちは、簡単な調理道具やゴザなど身の回りのものを持ち込み、仮住まいとしての質素な小屋を立てる。そのゴザにゴロンと寝転び、番をするのだという。相当の労力がかかる作業にもかかわらず、かれらの雰囲気がどこかのんびりしていて、「おまえも、ここで昼寝して待っていたらいい」などと言うものだから、大変な作業であることをうっかり忘れてしまう。

マングローブ林は世界的に減少傾向にある。ギニアで実践されてきた煮沸式製塩方法は、この貴重な資源の浪費だと批判され、改善すべきものとして、開発援助の対象となっている。2008年の訪問時には、すでに、ビニールシートを用いた塩田式がフランスのNGOによって試験的に導入されていた。塩田式ならば、薪を用意したり、火加減に気を配りつづける必要はない。確かにこのきつい陽射しと、土に浸み込む海水量をほぼゼロにすることができるシートを利用すれば、生産量はぐっとあがる。

しかし、「この方法は楽で、塩はすぐにできあがる。だけど、シートが破れたら買うことも、直すこともできない」と塩の番人は話した。シートはそうそう破れるようなものではないにもかかわらず、愚痴をこぼす。これという理由は示さないけれど、どこか気に入らない様子だった。煮沸式で製塩する「塩の番人」は、「ドゥンドゥルンチ セボン」とよく言っていた。ぼちぼち、ゆっくりゆっくりがよい、という意味である。これは、彼に限らず、ギニアで出会ったスス語を話す人びとがよく口にするフレーズである。煮沸式は、まさに、ドゥンドゥルンチな方法であり、生き方のリズムと生業のリズムがぴったり合っているとも言える。

とはいえ、ローカルな生活様式や価値観は、国内外からのさまざまな影響を受けながら、確実に変化してきている。2010年秋には、大統領選の結果が出た。これが、さらなる情勢不安を招くのか、それとも平穏無事な生活をたぐりよせるのか。マルシェを往来する人びと、シート式塩田、そして、塩を焼く民のその後にも、大統領選の結果は何らのかたちであらわれるだろう。次、かれらのもとを訪れたときには、もう一度、「ドゥンドゥルンチ セボン カ?」と聞いてみよう。

撮影・文:中川千草(大学院GP プログラムコーディネーター)

■ストリート・ギャラリー(フィールドから見えるもの)

posted on 2010-11-19    

【報告】 日本社会学会若手企画テーマ部会

日本社会学会(第83回大会、於名古屋大学)でのテーマ部会は、盛会のうちに無事終了しました。


「グローバリゼーションと移動・定住のフロンティアの現在(若手企画テーマ部会(1))」

●日時:11月6日(土)09:30~11:30

●報告:

山北 輝裕(日本大学)
「野宿者の移動と定住」

安達 智史(日本学術振興会/東北大学)
「イギリスの若者ムスリムの社会意識―グローバリゼーション、再帰性、アイデンティティ―」

稲津 秀樹(関西学院大学/日本学術振興会)
「移動する人びとの社会をどのように〈フィールドワーク〉できるのか―〈自己延長的なフィールドワーク〉の試みにむけて―」

谷村 要(大手前大学)
「ネットコミュニティと地域コミュニティが交差する<場>―滋賀県犬上郡豊郷町におけるアニメ聖地を事例として―」

轡田 竜蔵(吉備国際大学)
「グローバリゼーションと地元志向」

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●コメンテーター:五十嵐 泰正(筑波大学)、塩原 良和(慶應義塾大学)

●司会:川端 浩平、白石 壮一郎(いずれも関西学院大学)

このテーマ部会は、本大学院GPにおけるこれまでの共同研究研究会の参加者を中心に編成されました。また、同学会は今大会で、若手の委員(若手フォーラム)が企画するテーマ部会を4つ開催しましたが、本部会はそのうちのひとつです。

さいしょに、司会者がたたき台としてふたつの提題をし、その提題に応ずる形で各発表者が事例研究を報告してもらいました。

グローバリゼーションは、画一化・均質化一辺倒ではなく、ローカル化の契機もふくんでいます。だが、グローバル化は「上から」、ローカル化は「下から」という説明図式は単純で、そのローカル化のなかには、資本や行政によってその契機がデザインされ、用意されたものもある。ここまでが、社会学ですでになされている指摘です。そこで・・・

【提題1】
帰属/identityのあり方や生活様式のあり方のなかには、資本や行政のデザインに規定されきらない部分もある。そうしたデザインに乗りつつもしだいに別の帰結を招来するような諸実践のように、これまでの研究では対象化されにくかった地域社会のリアリティがある。それはどんなものか。

【提題2】
流動性の高まりによって生じうる、これまでにみられなかった異なるカテゴリに属する人びとどうしの出会いをどうとらえられるのか。そうした出会いのなかでのコンフリクトや協働の例(これまでに対象化されにくかった水準での)はあるか、そしてそれはどう評価しうるか。

報告・コメント時間がずれこみ、フロアでの討論時間を割愛せざるを得なかったという反省はありますが、それぞれ力のこもった事例報告と、それらを架橋しつつ問題整理とあらたな論点提起をもたらした卓抜なコメント、報告者のコメントへのさらなるリプライという、濃密な120分でした。

各報告のアブストラクトは、学会webサイトよりごらんいただけます。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jss/research/conf83_p.html


※当日参加した大学院生・研究員からの報告・コメントなど(pdfファイル)はこちらからダウンロードしてください。

posted on 2010-11-19    

【ギャラリー】詩のボクシング ―声と言葉の格闘技

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詩のボクシング ―声と言葉の格闘技―(2009年11月21日撮影、2010年10月掲載)

2009年、「詩のボクシング」一般人大会が日本に誕生して10年を迎え、9回目となる全国大会が代々木の全労災ホール/スペース・ゼロで行われた。

詩のボクシングは2名の朗読ボクサーが赤と青のコーナーに分かれ、それぞれが1ラウンド3分間の中で自作詩を表現し合い、勝敗を決するリーディング・イベント(Reading Event)である。リングの周りには大勢の観客、勝敗を審査する7名のジャッジ、試合時間の開始と終了を知らせるゴング、試合進行を務めるリングアナウンサー。そして、リングに立つ16名の参戦者は、「朗読ボクサー」、そう呼ばれている。朗読ボクサーたちは、多くの観衆の面前に身体を晒し、自身の声と言葉をパンチという武器にかえて戦う。そこでは、年代も性別も職業もバラバラな人びとの自由な感情や心情が飛び交い、盛り上がりをみせる。

この「詩のボクシング」を調査している私も、朗読ボクサーとして大会に参戦した経験がある。リングから一体何が見えるのか、それが気になった。正面には審査員と観客が自分だけをまっすぐ見ている。まず足が震えた。それが下半身から上半身、両腕、そして指の先端へとつたうまで時間はかからなかった。わずか3分間の時間は永遠に続くものに感じられ、経験したことのない緊張感を味わってあえなく敗けた。自分の存在そのものを否定されたかのような感覚、それはまさに人生で初めての「ノックアウト」であった。しかし、そのことによって自分の中で何かが崩れ落ちる経験をした。それはリングに立つことでしか決して見ることのできない朗読ボクサーだけが味わうことのできる<なにか>である。

私の中で崩れ落ちたもの、それは自分のコミュニケーションに対する規範的/社会的な意識である。いかにわれわれが日常生活の中でそのようなものに縛られているかということを、朗読ボクサーとしての非日常な経験―悔しさやショックや達成感を含みこむ快感―によって気づかされた。詩のボクシングはあくまである種の「いかがわしさ」が漂うような遊びの場であるから、この場を「コミュニケーション」の場と読み込むには少々無理があるかもしれない。だがしかし、朗読ボクサーや観客らがそこに集い、さまざまな喜怒哀楽を表わし、大会に没頭する「楽しさの内実」は、現代的と言われている「やさしい関係」や人間関係に亀裂や衝突が起きないようにリスク管理するようなコミュニケーション観とは全く異なる側面を浮かび上がらせる。それは純粋に「コミュニケーションそのものを楽しむ」ことであり、詩のボクシングにはその素朴な強さと可能性を感じることができる。

撮影・文:尾添侑太(博士課程後期課程)

■ストリート・ギャラリー(フィールドから見えるもの)

posted on 2010-10-05    

【ギャラリー】ネパール・幸福祈願のモノたち

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ネパール・幸福祈願のモノたち(2008年10月15日撮影、2010年9月掲載)

11万5千本の灯りをともし、家族の健康と幸福を祈願するソウラックバッティ。ネパールの首都カトマンズ近郊の町、キルティプールで目にした祈祷である。この際、多くのお供え物を準備する。祈祷を行う寺院の横には、お供え物を調理する台所まであり、家族総出で、朝早くから準備に取りかかる。

写真は1回分の祈祷のために準備されたモノである。手前にあるのは火をともす芯、これはひとつひとつ綿を手で縒って作られている。竹かごのなかには、ジャガイモ、青菜、水牛の肉、ゆで卵、大豆、小麦粉を油で揚げたプーリー、果物などが、沙羅双樹の葉でできた皿(タパリ)に盛られている。これだけ多くのモノが神に供えられるのである。タパリは、かつては各家で作っていたが、いまではカトマンズのマーケットで100枚50円ほどで売られており、ほとんどの家では購入するようになったようだ。

数時間をかけて準備された供物は、儀礼を取り仕切る一家の母親の手からほんの一瞬神に供えられたのち、周りに集まってくる近所の子どもたちによって奪い合いとなる。神への「お供え物」はあっという間に他者の「食物」となり、子どもたちの空腹を満たすのである。

祈祷のあとは、近郊から集まった家族が一列に並んでゴザに座り、宴会となる。自家製の酒「ロキシー」を飲み、ごちそうを食べ、談笑する。カトマンズ盆地では核家族が増えてきたが、こうした祈祷や祭りの際には親族が集まってくる。家族の幸福を祈願する日は、普段会えない人々の健康を確認できる日でもあるようだ。

文:葛西映吏子 (大学院GPリサーチ・アシスタント)

■ストリート・ギャラリー(フィールドから見えるもの)

posted on 2010-09-29