お知らせ&レポート » 一覧表示 »

【ギャラリー】詩のボクシング ―声と言葉の格闘技

street_gallery0013


詩のボクシング ―声と言葉の格闘技―(2009年11月21日撮影、2010年10月掲載)

2009年、「詩のボクシング」一般人大会が日本に誕生して10年を迎え、9回目となる全国大会が代々木の全労災ホール/スペース・ゼロで行われた。

詩のボクシングは2名の朗読ボクサーが赤と青のコーナーに分かれ、それぞれが1ラウンド3分間の中で自作詩を表現し合い、勝敗を決するリーディング・イベント(Reading Event)である。リングの周りには大勢の観客、勝敗を審査する7名のジャッジ、試合時間の開始と終了を知らせるゴング、試合進行を務めるリングアナウンサー。そして、リングに立つ16名の参戦者は、「朗読ボクサー」、そう呼ばれている。朗読ボクサーたちは、多くの観衆の面前に身体を晒し、自身の声と言葉をパンチという武器にかえて戦う。そこでは、年代も性別も職業もバラバラな人びとの自由な感情や心情が飛び交い、盛り上がりをみせる。

この「詩のボクシング」を調査している私も、朗読ボクサーとして大会に参戦した経験がある。リングから一体何が見えるのか、それが気になった。正面には審査員と観客が自分だけをまっすぐ見ている。まず足が震えた。それが下半身から上半身、両腕、そして指の先端へとつたうまで時間はかからなかった。わずか3分間の時間は永遠に続くものに感じられ、経験したことのない緊張感を味わってあえなく敗けた。自分の存在そのものを否定されたかのような感覚、それはまさに人生で初めての「ノックアウト」であった。しかし、そのことによって自分の中で何かが崩れ落ちる経験をした。それはリングに立つことでしか決して見ることのできない朗読ボクサーだけが味わうことのできる<なにか>である。

私の中で崩れ落ちたもの、それは自分のコミュニケーションに対する規範的/社会的な意識である。いかにわれわれが日常生活の中でそのようなものに縛られているかということを、朗読ボクサーとしての非日常な経験―悔しさやショックや達成感を含みこむ快感―によって気づかされた。詩のボクシングはあくまである種の「いかがわしさ」が漂うような遊びの場であるから、この場を「コミュニケーション」の場と読み込むには少々無理があるかもしれない。だがしかし、朗読ボクサーや観客らがそこに集い、さまざまな喜怒哀楽を表わし、大会に没頭する「楽しさの内実」は、現代的と言われている「やさしい関係」や人間関係に亀裂や衝突が起きないようにリスク管理するようなコミュニケーション観とは全く異なる側面を浮かび上がらせる。それは純粋に「コミュニケーションそのものを楽しむ」ことであり、詩のボクシングにはその素朴な強さと可能性を感じることができる。

撮影・文:尾添侑太(博士課程後期課程)

■ストリート・ギャラリー(フィールドから見えるもの)

posted on 2010-10-05