【案内】共同研究「東アジアのストリートの現在」第8回研究会「アニメ聖地となる<ストリート>」

投稿者:「東アジアのストリートの現在」研究班

「東アジアのストリートの現在」班では、2010年1月24日に第8回研究会を行います。ぜひご参加ください。


● 第8回研究会「アニメ聖地となる<ストリート>」

● 日時:2010年1月24日(日)13:00-18:00(予定)

● 場所:TKP大阪梅田ビジネスセンター・カンファレンスB1A室
     http://tkpumeda.net/access/index.html

※ 公開研究会ですのでどなたでも参加できますが、会場の収容人数には限りがございます。参加を希望される方は、研究会後の懇親会の出欠と合わせて事前に下記までご連絡いただければさいわいです。(参加無料
  soc-gp@kwansei.ac.jp


● 発表者:

松本 真治(鷲宮町商工会 経営指導員)

岡本 健(北海道大学国際広報メディア・観光学院観光創造専攻 博士課程)

谷村 要(関西学院大学大学院社会学研究科大学院GP リサーチアシスタント)

● コメンテーター: 森川 嘉一郎(明治大学国際日本学部 准教授)


● 趣意:

 変動するコミュニケーション状況の中で、<ストリート>において誰と誰が出合い(あるいは出会えず)、交わり(あるいは交わらず)、つながり(あるいはつながらず)、その場所性が創発されていくのか?

 本研究会では特にメディアを通じて流通するコンテンツやコミュニケーションが介在した現象に着目し、その問いに迫ることを目的とします。その事例として、「(アニメ)聖地巡礼」を取り上げます。

 「(アニメ)聖地巡礼」とは、アニメファンによるアニメ作品のモデル地域への訪問や旅行を意味する言葉として近年用いられており、この動きを地域振興に活用しようとする市町村が登場しています。埼玉県北葛飾郡鷲宮町はその地域振興が特に「成功」したとされる地域ですが、そこでは、どのような担い手たちが、いかなるプロセスを経てこの現象に関わっているのでしょうか。本研究会ではこの鷲宮町にかかわる実践者・研究者をお呼びし、さまざまな位相からこの問いを考察することを目的とします。

本研究会のチラシ・データ(pdf ファイル)はこちらからダウンロードしてください。

posted on 2009-12-24    

【レポート】共同研究「東アジアのストリートの現在」第7回研究会「ストリートと善意」


● 第7回研究会『ストリートと善意』

● 日時:2009年11月7日(土)13:00-17:00

● 報告:

・『「善意」に支えられた「ホームレス支援」の現在 —地方中核都市Y市の事例より』
堤圭史郎 (大阪市立大学都市研究プラザGCOE特別研究員・同 都市文化研究センター研究員)

・『路上とジェンダー —誰にも解放された路上?』』
鍋谷美子 (神戸YWCA夜回り準備会)

・『地方都市A市における「支援」活動 — 「善意」と「運動」のはざまで』』
川元みゆき (関西学院大学大学院修士課程)

● コメンテーター:仁平典宏(法政大学専任講師)


この研究会のテーマ「ストリートと善意」というのは、謎かけに近い。主催側はいったいそうしたテーマをどこまで確信犯的に投げかけているのかと、参加した方々はいぶかしんでおられたかもしれない(私自身も主催側のひとりだが)。「テーマを見ておもわず、ストリートに善意なんかねぇよ、と」、「よくわからない、なんだか恥ずかしくなるようなテーマ」と、その違和感に言及してくださった方もいた。

<善意>(英語でいえばkindnessとかbenevolenceが近いか?)とは、研究会のkey ideaとしてもやっかいだが、われわれの日常で出会う善意というのも、かなりやっかいで鬱陶しい。ヨカレと思ってやっていることが、その行為のあて先となる人には決してヨイという保証はないはずなのに、善意というのはどこかそのことを忘れがちだ。野宿者を支援するという行為をささえるのも<善意>ならば、「地域の安心・安全な暮らし」のために野宿者を公園から排除する行為を支持するのも<善意>。

Y市内の地域ボランティアグループの支援活動では、それぞれのメンバーの活動意識にはそうしたある種の<善意>と、既存の日常的な対面関係のベースがあった(堤報告)。かれらは社会運動の理念的語彙で「ホームレス問題」をとらえるのではなく、あくまで見知った人のあいだでの日常のもろもろの出来事とそれへの対処を重ねていた。また、A市では学生・教会の関係者や農場経営者、学生らで組織された支援団体が、月一度の炊き出しとミーティングという活動からスタートする。しかし支援団体はやがて、夜回りにも活動を広げるとともに「運動団体化」していく(川元報告)。もともと運動体として組織されたわけではないこうした地域の小規模な動きは、その面々だからこそそうなる、というような固有の集まりと活動とを展開しているがゆえに、キーパースンがいなくなれば、活動状況も劇的に変化しうるという側面がある。行政との人的リンクの有無も大きい。そこには、顔の見える場をベースにした取り組みの強さと弱さがみえる。

社会運動がなんらかの社会的に<善>なるものを追求するのだとしたら、上記のような地域の小規模な取り組みは、そうした公的<善>への希求とは異なった、関わる人びと各々の<善意>によって支えられる。だから、なにかのideologicalな<善>へコミットせずとも活動にはコミットできる。しかし一方で、<善意>は、公的な議論で鍛えられることがないゆえに非常に脆く、しかし先験的な普遍性を帯びたものである。したがってそれを(支援のあて先にあたる人や一緒に活動にかかわる人に)拒否されると、たちどころに撤退せざるを得ないような性質をも持っているのではないかと思う。

顔のみえる場は、ある<善>の実現に向けて目的特化したassociationとはちがった、普通の人としての出会いや交流を生む可能性をもつ。一方で、そうした関係のなかで生じる暴力は、暴力を受けた者にはいっそうの衝撃を与えるのかもしれない(鍋谷報告)。世の中のあらゆる社会集団や関係はドミナントな価値構造に浸されているが、そうした構造に収奪されやすい場や人びとはある。暴力をふるわれたり、「暴力をふるわされたり」する。そのような場面を、具体的にどのように乗り越えていくかはまだわからない。顔のみえる関係やによって支えられた取り組み(「ボランティア」)と、社会運動との境界は、こんにちかつてほどに明確ではない。ここでの議論は、あらゆる「運動体」が共有できる問題でもある。


文:白石壮一郎(大学院GP特任助教)


※より詳細なレポートは下記に掲載しております
第7回研究会 「ストリートと善意」(pdf ファイル)


posted on 2009-12-03    

【案内】共同研究「東アジアのストリートの現在」第7回研究会『ストリートと善意』


「東アジアのストリートの現在」班では、2009年11月7日に第7回研究会を行います。ぜひご参加ください。


● 第7回研究会『ストリートと善意』

● 日時:2009年11月7日(土)13:00-17:00

● 場所:TKP大阪梅田ビジネスセンター・カンファレンス10B室(45人収容)
http://tkpumeda.net/access/index.html

※ 公開研究会ですのでどなたでも参加できますが、会場の収容人数には限りがございます。参加を希望される方は、研究会後の懇親会の出欠と合わせて事前に下記までご連絡いただければさいわいです。(参加無料)
soc-gp@kwansei.ac.jp


● 報告(タイトルは仮題):

・『「善意」に支えられた「ホームレス支援」の現在 —地方中核都市Y市の事例より』
 堤圭史郎 (大阪市立大学都市研究プラザGCOE特別研究員・同 都市文化研究センター研究員)

・『路上とジェンダー —誰にも解放された路上?』』
 鍋谷美子 (神戸YWCA夜回り準備会)

・『地方都市A市における「支援」活動 — 「善意」と「運動」のはざまで』』
 川元みゆき (関西学院大学大学院修士課程)

● コメンテーター:仁平典宏(法政大学専任講師)


● 趣意

 本研究会では、1990年代より増加してきた野宿者と、彼/彼女らを取り巻くさまざまな立場からの支援者・支援団体とその方策、そしてそれらに対する野宿者からのリアクションなどに焦点をあてるなかで、ストリートにおける協同の可能性と困難について検討する。

 また、あるべき<場>の構想や具体的な<場>づくり・運営などの過程では、異なる立場のアクターたちのそれぞれの視座からの<善意>が拮抗する。この点に着目することにより、現代社会においてわれわれがいかに「他者の幸福」や「公共善」にコミットしうるのかを問う議論を行いたい。

本研究会のチラシ・データ(pdf ファイル)はこちらからダウンロードしてください。

posted on 2009-10-29    

【レポート】第6回研究会「場の創発・衝突・奪還」研究会

2009年7月25日(土)13:00-17:00
主催 * 研究班「東アジアのストリートの現在」


論者:
 ○ 猪瀬浩平さん(明治学院大学専任講師)
 ○ 前田拓也さん(神戸学院大学講師)
 ○ 丸山里美さん(日本学術振興会特別研究員、東洋大学)

コメンテーター:
 ○ 福井栄二郎さん(島根大学准教授)

各人の報告内容は以下の通りである。


猪瀬さんの報告:

単に場所に人が集まっていることが場の創発・奪還なのではなく、必然性もなく集まった場において、人と場の結びつきや、場をめぐる人と人の結びつきが如何にして生成するのか、という根源的な問題関心のもと、場に固有名が与えられる瞬間(場に名をつける、場をなつかしむ)に注目された。

福祉農園における盗難被害を契機に、農園の場の位置づけが顕在化する。とくに、盗難をめぐる人びとの対応によって、即時的に福祉農園の内と外が分けられていく。盗難事件という危機を契機に、福祉農園のメディアとしての「場所」性が重要な意味をもつことが指摘される。いっぽう、内側は一枚岩ではなく雑多であり、この雑多性が、新たな日常活動を生成する起源とされる。これらをもって、盗難を契機とした共同体(性)の可視可の<リズム>が報告された。


前田さんの報告:

障害をもつ当事者と介助者の関係性の変容を社会学的に明らかにされた。その際、介助をめぐるコミュニケーションがとりかわされる「場」という分脈を視野に入れるために、CIL(自立生活センター)と個々の介助者との関係性に着目された。とくに、CILを「出入り自在」で非同質的な流動性をもつコミュニティとして位置づけるなかで、介助の有償化に着目される。それは、「つながると同時に切り離された人びと」の集う両義性の場であるが、それこそが重要であると指摘された。なぜなら、それが介助者/健常者を含めたさまざまな人びとが織りなす社会的実践を可能にするのであり、そうした逡巡を経た<介助者>が社会へ輩出されることこそ、CILという場の社会への拡散を意味し、「運動」としての可能性があるからである。


丸山さんの報告:

イギリスのスクウォット運動について報告された。イギリスではスクウォットは違法ではない。かといって、合法でもなく、違法ぎりぎりのところでおこなわれる。刑事ではなく民事であつかわれる。いったん住居(空き屋)に侵入すれば、居住権が発生するため、居座ることができる。裁判所に所有権を訴えない限り、スクウォッターを立ち退かせることはできないが、訴えられると確実に立ち退かされる。有志によって自主管理され、アートやイベント、交流スペースとして用いられるソーシャルセンターという空間の実践・スクウォットの実践・思想が報告された。


報告者:山北輝裕(大学院GPリサーチアシスタント)


posted on 2009-08-01    

【レポート】第5回研究会「〈ストリート〉をめぐるエスニシティ研究の可能性-社会学と人類学の対話」研究会

20090620-001

2009年6月20日(土)12:30-17:00
主催 * 研究班「東アジアのストリートの現在」


本研究会の課題は、包摂と排除をめぐる権力にさらされる〈ストリート〉空間における人々の①出会い(出会えない)、②交わり(向き合えない)、③つながり(つながれない)状況を、とりわけ、「エスニシティ」に焦点を当て、社会学・人類学という分野の垣根を超えて考察することにあった。

社会学側の報告は、稲津秀樹(関西学院大学)と岩舘豊氏(一橋大学)が行った。その焦点は、マルチエスニシティーズ間の関係性と、それらが担保される空間/場所の成立・維持という側面に当てられていたように思える。

まず、報告者でもある稲津は、これまでの日本のフィールドを事例にしたエスニシティ研究を概略的に振り返りつつ、それらが普遍的な「民族関係」に関する知見を提出することを目指しながらも、その内実は二民族間の関係分析となっており、「多民族」的あるいは「多文化」的という言葉の中に込められてある状況を、本当に捉えられてきたのだろうか、という疑問を提出した。そして、その疑問を具体的に考察していくための事例として、複数のエスニック集団がかかわる民族まつりに着目した。まつりという空間を構成する資源を、オールドカマー/ニューカマーを問わない様々なマルチエスニシティーズが交換している様子を、参与観察データから報告することで、今後の日本のエスニシティ研究において、二者間以上のエスニック集団の関係性と、それが担保される空間に着目することの重要性を報告した。

続いて、岩舘氏には、神奈川県のある団地へのフィールドワークから、「集会所的なるもの」の構造と論理に関する研究成果を報告いただいた。この団地にはインドシナ難民や日系南米人などが住み、「集会所」という空間が移住者の子どもたちにとって何かしらの意味をもつようになっている。だが、岩舘氏の研究の興味深いところは、「集会所」なる空間を決して一枚岩的に捉えず、複数の場所の「共起」として捉えるところにある。例えば、集会所前の道路、階段のところ、和室、事務室、奥の部屋…といった具合に、その場その場で交わされる人々の会話内容や行為の異同に着目しつつ、「集会所」なる空間を、複数の場・論理の構成を提示していくことで分解すると同時に、それら複数の場・論理を生きる人々同士の織りなす関係性を視覚的な図表として提示されたことにより、稲津報告では曖昧であった、マルチエスニシティーズからなる空間/場所の細かな差異を浮かび上がらせてもらったのではないかと考える。

人類学側の報告は、野上恵美氏(神戸大学)、永田貴聖氏(立命館大学)そして久保忠行氏(神戸大学)が行った。社会学側の報告が、エスニシティを起点としつつも、さまざまなエスニシティが遭遇する〈ストリート〉的な空間/場所を成立・維持させる人々の相互作用の分析に収れんしていったのに対して、人類学側の報告で印象的だったのは、ストリート的な状況を起点としつつも、対象となる〈エスニシティ〉を把握することへと実直に向かい合われようとする姿勢であったように思われる。

野上恵美氏は、神戸市長田区にあるカトリック教会、および教会内に事務所を置く在日ベトナム人自助組織へ参与観察を行う立場から、それらの現場で一体、誰と誰が出会い(出会えず)、交わり(向き合えず)、つながる(つながれない)のか、という問いを中心に現状を報告された。個人的には、在日ベトナム人のみからなる「信徒会」の活動に対して、日本人支援者による介入の語彙として「多文化共生」という語が用いられるようになっているとの報告は、エスニシティ独自の自立性あるいは自由をめぐる課題として興味深いものだった。宗教活動を通じた在日ベトナム人独自のエスニシティ形成の可能性は、「多文化共生」の名の下で、「妥協」しつつ、阻害されていくのだろうか。今後の「エスニシティ」の形成を考えるうえで重要な課題であろう。

永田貴聖氏は、「人類学者が移民と出会う場は『ストリート』なのか?」という問いかけから、我々の研究班の「ストリート」定義を分解して、在日フィリピン人の生活世界(戦術)へと迫る試みを展開された。具体的には、排除と包摂の権力にさらされる日本という国民国家が彼彼女らにとっての「ストリートA」だとすると、フィリピン人たちはそこにおける生存のための「ストリートB」を形成する(「ストリート・ライフ」の実践)というものである。また、フィリピン人当事者とその戦略にかかわる日本人(人類学者)との関係性を「トランスナショナリティ」と措定したうえで、そのかかわりの中で、人類学者も自身の「ストリート・ライフ」に気づきつつ、彼彼女らと日本社会の間を「仲介」していくことにこそ、フィリピン人の対抗戦術の広がりの可能性が宿っているのではないかと説かれた。このように永田氏のお話からは、「エスニシティ」を把握するための〈ストリート〉の二面性のみならず、その間で行き来する調査対象者と調査者の位置を考えるうえで示唆に富むものだった。

久保忠行氏は、ビルマからタイに逃れた「カレンニー」難民の人々が住むキャンプの報告から「エスニシティ」の定義にあたって言及されるもの(原初的紐帯、道具的側面、主観的・客観的定義、名づけ、名乗り…等)ではとらえきれない側面が、〈ストリート〉概念を持ち込むことで光を当てていく可能性を示唆された。特に、タイのビルマ国境周辺のキャンプにおけるエスニシティ内部の多様性(カヤー、カレン、カヤン、カヨー、パク…等)が、様々なアクターの介入により、どのように変化していったのかが報告者には興味深いものだった。久保氏によれば、キャンプは、ビルマ軍事政権に対抗する武装団体の存在によって、多民族が「カレンニー」民族としてひと括りに「集約」されていく力学と、一方で、国際NGOの人道的介入が、キャンプ内部で難民自身が助け合う契機を奪っている力学が作用しているものとして分析される。このような多民族間/アクター間の関係を、キャンプでどういった人々が出会うことにより変化したものかとして捉える見方から、〈ストリート〉をめぐるエスニシティ研究ではなく、「エスニシティ」をめぐる〈ストリート〉(的な状況)を研究すべきではないかとの疑問を提出された。

その後、コメンテーターのお二人からは、それぞれの専門とは異なる領域の報告に対する問いを、それぞれ行って頂いた。谷富夫先生からは、人類学側の報告で中心となった「エスニシティ」の概念が、アメリカ社会学で言われるようになった背景に、その「文化的側面」と「マイノリティ」(inequality)という2重の側面があったことを指摘された上で、ご自身のフィールド経験から、特に不平等を生きる人々の内面(「バイタリティ」)とそれを支える「生業」に、それぞれ着目していくことの重要性を人類学ではどのように考えられるか、という問いを投げかけられた。東賢太朗先生は、社会学の現状分析に対して、「夢」あるいは「ロマン」が語られないことへの疑問を提出された。つまり、「ストリート的なエスニック状況」を分析していった先に見えてくるものには、いったい、どんな価値があるのか。それを分析することは、いったい、どのような意味があるのか。十分な討論時間を確保できなかったため、各パネラーからの回答を踏まえた総合討論の時間は取れなかったが、コメンテーターお二人から提出された問いは、今後の、〈ストリート〉と「エスニシティ」を考察していくうえで、重要な問いとしてあり続けるものと考える。この点は、今回の研究会の企画者・発表者として、第2回研究会に向けた課題として真摯に受け止めていきたい。


報告者:稲津秀樹(博士課程後期課程)


posted on 2009-07-14    

【レポート】第4回研究会「ストリート理論レクチャー」研究会

2009年6月6日(土)13:00-16:00
主催 * 研究班「東アジアのストリートの現在」


民博「ストリートの人類学」(関根康正代表)班のメンバーでもある森田さんに、民博ストリート班の前提となるストリート概念の整理についてレクチャーをお願いした。

まず、民博班は、ストリートをタイトに定義しない方針にした。ある方向に向かって全員が進むというよりも、各自フィールドから自由に論じた。そのことで、「まとまり」が難しいことがあったが、そのようななかでも、基本的な指針があるとのことだった。

ひとつは、脱ネオリベのための人類学再考。たとえば、再帰化の議論。「周囲の他者との関係から自己を切り離して自己決定できる自律的な個人…」といった想定は一見、悪いことはないように思えるが、この思考のもつ新たな弊害等(オリエンタリストと同じ位置)。

ふたつは、ストリートを発見的な概念として使用する。街路としてのストリートであると同時に、ヒト、モノ、コトバのグローバル化ないしトランスナショナル・フローという交通現象をさす「拡張したストリート」(村もストリート)。

みっつに、根源的受動性、撹乱的な横断性を特徴とする「ストリート現象」。ストリートは縁辺・隙間であり、自立した空間ではない。諸力が生の上に重くのしかかるたびに、それを別の方向へ向けるような、外の力を折り返し、方向を変えるような実践(ex.歩道に寺が建つ)。

これらの指針によって、各々のフィールドのストリートが描かれる(30人ちかくの執筆者…)。

また、方法としてのストリートについても指摘があった。「ストリート」を対象であると同時に方法とする。枠組みとしては、ロマン主義的なストリートへの視線を反省的に捉え返したり、平滑空間(織物)/条理空間(フェルト素材)の議論、二項対立を乗り越えるものとしての陶酔者的スタンス、などを紹介してもらった。

また、今後の「民博ストリート班」は、トランスナショナルとストリートについて展開予定。その際に、権力システムを自明視しているが、それをどう描くか、という課題や、ストリートの多様な実践理解のために、「動かないこと」「偶然のチカラ」などユニークなアイデアが紹介された。

議論においては、各自のフィールドから各自の「ストリート感」「ストリートとは」を放談し、ストリート概念のもつ魅力および、つかみどころのなさについて自由に話しあった。関学ストリート班は、やはりルフェーブルも知らない空間や、セルトーの想定していなかった実践、あるいは、セネットが経験したこともないような秩序について、各自のフィールドから「ストリートの現在」として描くことがまずは、目標になるだろう。とはいえ、関学ストリート班の理論的「売り」を引き続き意識していかなくてはいけない。
しかしそれは、学内・学外メンバーが一通り報告を終えた後に見出せるものかもしれないが…。

今後、森田さんには、最終的には執筆者(見世物小屋研究)としてあるいは、映像に関するアドバイザーとして(森田さんもGCOEで映像編集経験あり)、関学ストリート班と関係を維持していただくことを提案し、快諾という形になり、終了した。

報告:山北輝裕(大学院GPリサーチアシスタント)


posted on 2009-06-26    

【レポート】第3回研究会 「ストリート・ヴァンダリズム・参与観察」

2009年4月25日(土)
於 大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア大阪:1408号室


報告者:
飯田豊(福山大学人間文化学部メディア情報文化学科専任講師)・南後由和氏(東京大学大学院情報学環助教)、「グラフィティのフィールドワーク――都市論とメディア論からの接近」
打越正行(社会理論・動態研究所)、「沖縄の暴走族とヤンキーの意味世界」
新谷周平(千葉大学教育学部准教授)、「社会の観察と関与へ ―そのなかで質的調査が占める位置と限界」

コメンテーター:鵜飼正樹(京都文教大学人間学部文化人類学科助教授)


 ストリートを再領有する・<私有化>するにあたっては、しばしばヴァンダリズムが伴う。そして、それは様々な「問題」を惹起する。ストリートは誰のものか?なぜストリートにヴァンダルなものが登場するのか?ストリートにおけるヴァンダルな実践を社会学者はいかにして描くことができるのか?
 そこで本研究会では、ストリートにおける若者の営為に着目し、最前線で研究をなさっている飯田豊、南後由和、打越正行、新谷周平の各氏にご報告いただいた。コメンテーターには、大衆演劇や参与観察法の専門家である鵜飼正樹氏を迎えた。

※より詳細なレポートは下記に掲載しております
第3回研究会 「ストリート・ヴァンダリズム参与観察」(pdf ファイル)

posted on 2009-06-25    

【案内】「〈ストリート〉をめぐるエスニシティ研究の可能性-社会学と人類学の対話」研究会

● 日時  2009年6月20日(土)12:30-17:00

● 会場  関西学院大学上ヶ原キャンパス E号館301教室
      http://www.kwansei.ac.jp/Contents?cnid=3334

 公開研究会ですのでどなたでも参加できますが、会場の収容人数には限りがございます。参加を希望される方は、懇親会の出欠と合わせて事前に下記までご連絡いただければさいわいです。
 soc-gp@kwansei.ac.jp

● 研究会の内容

  関西学院大学社会学研究科大学院GP「東アジアにおけるストリートの現在」班では、〈ストリート〉の現在をめぐって次の問いを探求しています。すなわち、排除と包摂の権力が交錯する空間/場において、「いったい誰と誰が①出会い(出会えず)、②交わり(向き合えず)、③繋がるのか(繋がれないのか)」。今回の研究会では、そうした〈ストリート〉をめぐるエスニシティの現在を報告するにとどまらず、これからのエスニシティ研究そのものの可能性も含めて、社会学・人類学を専攻する若手研究者による徹底討論を行います。ぜひ、ご参加ください。

● 論者と論題

【社会学】

○ 稲津秀樹(関西学院大学大学院) 
  「〈ストリート〉をめぐるエスニシティ研究へむけた一考察―空間的資源の交換過程としての〈民族まつり〉を事例として―」

○ 岩舘豊(一橋大学大学院) 
  「『集会所的なるもの』の構造と論理についての経験的研究」

【人類学】

○ 野上恵美(神戸大学大学院)
  「『多文化共生』の中の在日ベトナム人―マイノリティの生活世界―」

○ 永田貴聖(立命館大学 衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)
  「人類学者が移民と出会う場は『ストリート』なのか?―在日フィリピン人移民研究からの視点」

○ 久保忠行(神戸大学大学院)
  「難民キャンプのなかの『エスニシティ』」

● コメンテーター

○ 谷富夫(大阪市立大学)
○ 東賢太朗(宮崎公立大学)

※当日、懇親会の開催を予定しております。研究会への参加を希望される方は、懇親会の出席有無と合わせて事前にGP事務室までご連絡ください。
 soc-gp@kwansei.ac.jp

posted on 2009-06-11    

【レポート】第2回研究会「東アジアの現在」研究会

2009年3月25日(水)13:00~16:00
主催 * 研究班「東アジアのストリートの現在」


講師:全泓奎 さん(大阪市立大学都市研究プラザ准教授)


ホンギュさんはこれまで、社会的に不利な地域(韓国)における住民の居住の権利を守るために、住み込みながら支援活動をおこなってきた。強制排除の際に、激しい闘争にも参加されてきた。ホンギュさんにとって、研究は、住民のニーズを満たすためのツールとなる。2000年前後から日本にも留学されていたが、日本の「環境整備」は、もっとも必要とされる人々に届いていないという問題感心から、野宿者(宮下公園)の支援に参加されてきた。現在は、在日コミュニティの調査等を精力的に行われている。

まず、「社会的に不利な地域」をとらえるうえで有用な「社会的排除論」が紹介された。これまでの所得(結果)を基準とした「貧困」概念ではなく、教育・健康・社会関係といった複合的なプロセス問題として「社会的排除」概念が述べられた。そして、このような地域における、住民のニーズをどのように実現してくのか、その具体例として、フィリピンと韓国のコミュニティーオーガニゼーションを紹介された。


※より詳細なレポートは下記に掲載しております

■第2回研究会「東アジアの現在」(pdfファイル)

posted on 2009-05-29    

【レポート】第1回研究会「映像をみる/まなぶ/とる」研究会

投稿者:中川千草

日時:2009年2月27日13:00-18:00

内容:

 報告者:櫻田和也(remo)、原口剛(日本学術振興会/神戸大学)

 参加者:

   院生/研究員:山北、谷村、西牟田、稲津、川元、中川

   教員:三浦

研究会は、櫻田さんによる「remoscope」の紹介からはじまった。「remoscope」とは、定点撮影、無声、無加工(編集)、撮影時間1分間という「リュミエール・ルール」に従って撮影された映像作品である。Remo*1主催のワークショップに参加し、この方法で映像と向き合った人の感想は二つに分かれるという。「世界は意外と動いていない」もしくは「世界は意外と動いている」。空間と時間が切り取られた世界は、みる者にどう映るのか?ストリート班のメンバーからも試みたいという声が多数聞かれた。この時点で、映像記録への憧れや興味はいっそう煽られたように思う。次に紹介されたのは、2001年にミラノではじまった「ユーロメーデー」というイベントに関する映像である。若い非正規雇用者たちを組織化した、失業を核とした運動のなかで、映像が記録・広報ツールとして利用され、効果を発揮するのかということを知ることができ、映像のもつ可能性が伝わってきた。原口さんの議論では、2007年の長居公園における行政代執行*2というできごとを通して、より具体的で身近なものとして記録と映像について考えることができた。マスコミが取り上げる、つまり切り取る時間と空間は、話題性がある部分に限られる。強調したい部分のみが繰り返し流される。支援者たちは、マスコミによって切り取られた部分以外の様子を映像として記録し、発信することを試みた。ただし、マスコミであろうと支援者であろうと、撮影する側の恣意性を否定することはできない。恣意的操作がもつ暴力性は言うまでもないが、それを悲嘆するにとどまらず、そこから更なる可能性を探求する必要があるだろう。研究会の最後は、社会学として、あるいは学問としての映像記録の意義、「ことば」と映像、それぞれがもつ力、などについての総合議論がおこなわれた。そのなかで、「道具としての映像」と「実践としての映像」が有機的に結びつくことの新鮮さ、価値をはさまず、映像を残すことそのものが仕事となることなどを確認した。ストリートの現在を考えるうえで、「映像」をどう生かすのか?その意味はあるのか?今回の研究会を通して、答えを見つけつつあるように思う。

 

090227ストリート研究会

090227ストリート研究会

 

*1 remo(NPO法人「記録と表現とメディアのための組織」

*2 詳しくは、2007年の長居公園における行政代執行 を参照


<ギャラリー>

アルミ缶潰し競争

アニメ「聖地」の「イコン」

ラオスのマーケット


posted on 2009-02-27