【レポート】第1回研究会「映像をみる/まなぶ/とる」研究会
投稿者:中川千草
日時:2009年2月27日13:00-18:00
内容:
報告者:櫻田和也(remo)、原口剛(日本学術振興会/神戸大学)
参加者:
院生/研究員:山北、谷村、西牟田、稲津、川元、中川
教員:三浦
研究会は、櫻田さんによる「remoscope」の紹介からはじまった。「remoscope」とは、定点撮影、無声、無加工(編集)、撮影時間1分間という「リュミエール・ルール」に従って撮影された映像作品である。Remo*1主催のワークショップに参加し、この方法で映像と向き合った人の感想は二つに分かれるという。「世界は意外と動いていない」もしくは「世界は意外と動いている」。空間と時間が切り取られた世界は、みる者にどう映るのか?ストリート班のメンバーからも試みたいという声が多数聞かれた。この時点で、映像記録への憧れや興味はいっそう煽られたように思う。次に紹介されたのは、2001年にミラノではじまった「ユーロメーデー」というイベントに関する映像である。若い非正規雇用者たちを組織化した、失業を核とした運動のなかで、映像が記録・広報ツールとして利用され、効果を発揮するのかということを知ることができ、映像のもつ可能性が伝わってきた。原口さんの議論では、2007年の長居公園における行政代執行*2というできごとを通して、より具体的で身近なものとして記録と映像について考えることができた。マスコミが取り上げる、つまり切り取る時間と空間は、話題性がある部分に限られる。強調したい部分のみが繰り返し流される。支援者たちは、マスコミによって切り取られた部分以外の様子を映像として記録し、発信することを試みた。ただし、マスコミであろうと支援者であろうと、撮影する側の恣意性を否定することはできない。恣意的操作がもつ暴力性は言うまでもないが、それを悲嘆するにとどまらず、そこから更なる可能性を探求する必要があるだろう。研究会の最後は、社会学として、あるいは学問としての映像記録の意義、「ことば」と映像、それぞれがもつ力、などについての総合議論がおこなわれた。そのなかで、「道具としての映像」と「実践としての映像」が有機的に結びつくことの新鮮さ、価値をはさまず、映像を残すことそのものが仕事となることなどを確認した。ストリートの現在を考えるうえで、「映像」をどう生かすのか?その意味はあるのか?今回の研究会を通して、答えを見つけつつあるように思う。

090227ストリート研究会
*1 remo(NPO法人「記録と表現とメディアのための組織」)
*2 詳しくは、2007年の長居公園における行政代執行 を参照
<ギャラリー>