【レポート】共同研究「東アジアのストリートの現在」第12回研究会

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●第12回研究会 『”Mess-ing the Streets!?”-「汚れた公共空間」構想のために』

●日時:10月09日(土)13:30-16:30

●会場:関西学院大学社会学部棟 大学院GP事務室

●報告者と報告タイトル:

松村 淳 (関西学院大学大学院社会学研究科博士課程前期課程)
「阪神御影地区におけるジェントリフィケーションの進行と再領有化の試み」

白石 壮一郎 (関西学院大学大学院社会学研究科特任助教)
「1980年代国立大学新々寮反対闘争にみる再領有の実践」

●コメンテーター:

松原 康介氏(筑波大学大学院システム情報工学研究科助教)

岩舘 豊氏(一橋大学大学院社会学研究科博士課程/日本学術振興会)


●概要:

公共空間や公共性という語彙は、1990年代なかば以降の都市(再)開発のキーワードとしてしばしば目に触れる。そこでの「公共空間」は「安全・安心な市民の暮らし」というイデオロギーと表裏一体のものとして打ち出されているように思える。再開発後の都市空間において公共空間として演出されているのは清潔で透明で、「公共的」な活動を機能的にaffordすることを目指しているように見えながら、その実、「市民社会」の外部には排除の牙をむく。そこでは「安全・安心な市民の暮らし」を保障する公共空間の内実はほとんど問われないままだ。強烈に伝わってくるのは、公共空間はクリーンでなければならないというオブセッシブなメタ・メッセージだけである。

こうした公共空間のクリーン・アップは、再開発される街の設計のなかに織り込まれている(松村報告)。そうした設計の是非を問うのもさることながら、この研究会で着目したいのは人びとの活動がそうした設計をいかに食い破っていくことが可能なのかという「実践(practise)」を問うことだ(白石報告)。社会学の研究のなかで、こうした実践の意味を中心的に扱ったものは意外に少ない。逆に「汚す」となるとわれわれが即座に想起するのは「割れ窓理論(broken window theory)」のように、「汚し」が公共空間をスポイルするという、よく知られた立論である。

この研究会でいう「汚す」とは、設計された空間(space)に意味を書き込み、場所(place)として領有(appropriate)していく実践を指す。当日の議論で、「汚れた公共空間」の構想を模索し、共有することができればさいわいである。


● 開催レポート:

松村が震災後の駅前・街の公共空間の再編について現地取材にもとづく報告を、白石が歴史的資料から1980年代後半の国立大学学生寮における共同空間の創出の実践についての報告をおこなった。

震災後の公共空間の再編は、あらたな商業資本・不動産業の参入によるドラスティックな景観の変化をともなっていた。この報告では、新たにつくられたショッピングモールやマンションが、ある種のライフスタイルパッケージを用意しポピュラリティを得ようとしているさまや、それと旧商店街との対比が描かれ、そうしたなかで公共空間がどのようにデザインされているかが素描された。議論のなかでは、住民の階層によって、かれらの頭にある街全体の地図に書き込まれている情報が違ってきているのではないか、という指摘や、報告にあったモールの地階に設定された公開空地をひとつの山場とした神輿が、街のどの場所を通ってくるのかという細かな情報を記録してみてはという提案(松原)、など、都市空間の再編にこめられる意味を読み解きやすくする方法として、独自の地図を複数作成するやり方が提起された。

政策によって「個室アパート化」された1980年代後半の国立大学学生寮で、住人たる寮生たちは共同性を獲得するための諸々の実践を展開した。パノプティコンを髣髴させる寮舎構造の中心部を占拠し、大学側の管理の構造を逆転させ、寮生たちは廊下、個室、炊事スペースなどの空間に自分たちの生活イベントを定着させるさまざまなな仕掛けをつくっていく。それらは、かれらの「居場所」を創出するための共同性を取り戻す運動だったが、通常の社会運動と大きくちがう点は、生活に密接した「楽しさ」を原動力にしたアイデアや工夫が随所に盛り込まれたある種の過剰さを有していた点だ。ここで重要なのは「畳」など共同性の形代(token)となったものの存在であり、これに類するものには野宿者支援活動のなかでの「居場所」の形代になったブルー・シートの例(岩舘)などが議論のなかで挙げられた。

本研究会での報告と議論は、「実存空間」(レルフ)としてのストリートを理念化するさいに重要な参考事例を提供するだろう。


posted on 2010-12-17    

【レポート】共同研究「東アジアのストリートの現在」第11回研究会

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投稿者:稲津 秀樹(関西学院大学社会学研究科博士後期課程/日本学術振興会)

●第11回研究会 『路上と広場―〈マダン〉から眺める東アジアの現在』

●日時:2010年9月12日(日)13:30-16:30

● 場所:京都府民総合交流プラザ(京都テルサ)第1セミナー室

●第一報告者:山口 健一 (京都大学大学院GCOEプログラム研究員)

●第二報告者:水谷 清佳 (東京成徳大学専任講師)

●コメンテーター:稲津 秀樹 (関西学院大学社会学研究科博士後期課程/日本学術振興会)


●出席者による研究会レポート

第11回研究会は、「路上と広場―〈マダン〉から眺める東アジアの現在」と題して行われた。この研究会を開催するにあたり、主催者側(報告者)が設定した目的は以下のような内容であった。

今回は、わたしたちが、「路上」あるいは「広場」と何気なく呼称している社会的な空間/場のあらわれについて、韓国、そして、在日コリアンの人びとにとっての「マダン」なる実践に着目する。マダンはハングルで辞書的には「広場」あるいは「庭」と訳される語である。日本においては、これを伝統回帰的な意味と共にローカルな実践に接続させつつ、1980年代以降、在日の人びとにとっての文化を通じた政治実践、あるいは自己回復運動の一環としてあらわれた。一方、現代韓国社会ではストリート・パフォーマンスが行われるところとしても「マダン」が存在するといわれる。ここに、ストリートなるものの実態/概念を、東アジア(日韓)規模で考えていく際の、大きなヒントが隠されているように思える。

このように「マダン」を事例としつつ、日韓にまたがった「ストリート」的な実践をつなぐものを明らかにしようとしたのが、この研究会の目的であった。当日は、こうした主旨説明を報告者から行った後、山口健一氏(京都大学大学院GCOE研究員)と水谷清佳氏(東京成徳大学助教)からそれぞれご報告いただいた。


文:稲津 秀樹(関西学院大学社会学研究科博士後期課程/日本学術振興会)

※より詳しい報告は「路上と広場―〈マダン〉から眺める東アジアの現在」をご覧ください。

posted on 2010-11-19    

【報告】 日本社会学会若手企画テーマ部会

日本社会学会(第83回大会、於名古屋大学)でのテーマ部会は、盛会のうちに無事終了しました。


「グローバリゼーションと移動・定住のフロンティアの現在(若手企画テーマ部会(1))」

●日時:11月6日(土)09:30~11:30

●報告:

山北 輝裕(日本大学)
「野宿者の移動と定住」

安達 智史(日本学術振興会/東北大学)
「イギリスの若者ムスリムの社会意識―グローバリゼーション、再帰性、アイデンティティ―」

稲津 秀樹(関西学院大学/日本学術振興会)
「移動する人びとの社会をどのように〈フィールドワーク〉できるのか―〈自己延長的なフィールドワーク〉の試みにむけて―」

谷村 要(大手前大学)
「ネットコミュニティと地域コミュニティが交差する<場>―滋賀県犬上郡豊郷町におけるアニメ聖地を事例として―」

轡田 竜蔵(吉備国際大学)
「グローバリゼーションと地元志向」

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●コメンテーター:五十嵐 泰正(筑波大学)、塩原 良和(慶應義塾大学)

●司会:川端 浩平、白石 壮一郎(いずれも関西学院大学)

このテーマ部会は、本大学院GPにおけるこれまでの共同研究研究会の参加者を中心に編成されました。また、同学会は今大会で、若手の委員(若手フォーラム)が企画するテーマ部会を4つ開催しましたが、本部会はそのうちのひとつです。

さいしょに、司会者がたたき台としてふたつの提題をし、その提題に応ずる形で各発表者が事例研究を報告してもらいました。

グローバリゼーションは、画一化・均質化一辺倒ではなく、ローカル化の契機もふくんでいます。だが、グローバル化は「上から」、ローカル化は「下から」という説明図式は単純で、そのローカル化のなかには、資本や行政によってその契機がデザインされ、用意されたものもある。ここまでが、社会学ですでになされている指摘です。そこで・・・

【提題1】
帰属/identityのあり方や生活様式のあり方のなかには、資本や行政のデザインに規定されきらない部分もある。そうしたデザインに乗りつつもしだいに別の帰結を招来するような諸実践のように、これまでの研究では対象化されにくかった地域社会のリアリティがある。それはどんなものか。

【提題2】
流動性の高まりによって生じうる、これまでにみられなかった異なるカテゴリに属する人びとどうしの出会いをどうとらえられるのか。そうした出会いのなかでのコンフリクトや協働の例(これまでに対象化されにくかった水準での)はあるか、そしてそれはどう評価しうるか。

報告・コメント時間がずれこみ、フロアでの討論時間を割愛せざるを得なかったという反省はありますが、それぞれ力のこもった事例報告と、それらを架橋しつつ問題整理とあらたな論点提起をもたらした卓抜なコメント、報告者のコメントへのさらなるリプライという、濃密な120分でした。

各報告のアブストラクトは、学会webサイトよりごらんいただけます。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jss/research/conf83_p.html


※当日参加した大学院生・研究員からの報告・コメントなど(pdfファイル)はこちらからダウンロードしてください。

posted on 2010-11-19    

【レポート】関西学院大学社会学研究科大学院GP 共同研究班研究合宿


●日時: 2010年7月30日(金)夕方 ~ 8月01日(日)ひる

●場所: 関西セミナーハウス(京都)


7月の終わりに、2泊3日の日程で大学院GP共同研究班の研究合宿がおこなわれた。社会学研究科大学院GPではこれまで、大学院生・研究員の企画・運営によるふたつの共同研究班「東アジアのストリートの現在」(代表:稲津秀樹、谷村要)、「〈承認〉の社会学的再構築」(代表:吹上裕樹、平田誠一郎)が、学内外から報告者・コメンテーターを迎えた公開研究会を開き、議論を重ねてきた。この「夏合宿」は、それぞれの研究班のメンバーである大学院生・研究員の報告を中心とし、これまでの研究会に参加していただいた学外の若手社会学者の方々にコメンテーターをお願いして構成した。

この「夏合宿」のねらいは、共同研究班メンバーである大学院生・研究員各自に、これまでの研究内容を草稿の段階で報告してもらい、この先「論文」の形に仕上げるまでの指標とモチベーションを得てもらおうというものだった。

各報告は、いずれも質的な記述をともなった事例研究だ。方法は文献・文書資料の言説分析やフィールドワークをおこなったものなどさまざまである。いずれにしろこうした事例研究は、それをどのような理論的な文脈に位置づけて論じるのかが考えどころだ。学外からお招きしたコメンテーターの方々には、この理論的文脈付けに関してのサポーティブなコメントを各報告についてしていただき、そのうえで、草稿ブラッシュアップのための全体的な議論をおこなった。

こうして研究科外の大学院生・若手研究者と対面的な議論を「合宿」形式で集中的におこなうことは、大学院生の研究のモチベーションを刺激し、最終的な成果にしあげるためにはたいへん教育的効果の高いものだと思う。この「合宿」のあとに、報告内容をまとめ、ジャーナルに論文投稿した参加者もいる。そのほかの報告も、この先修士論文や、年度末までに刊行予定の共同研究成果論集(『KG/GP社会学批評』別冊)におさめられる論稿としてまとめられる予定だ。


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※ 研究合宿のプログラムと要旨集(pdfファイル)はこちらからダウンロードしてください。

文責: 白石壮一郎(大学院GP特任助教)

posted on 2010-09-29    

【レポート】共同研究「東アジアのストリートの現在」第10回研究会

投稿者:稲津 秀樹(関西学院大学大学院社会学研究科 博士課程後期課程)


● 第10回研究会『Transnational Sound or Homeland Sound? ─ 移民音楽が生みだす〈場〉と〈空間〉─』

● 日時:2010年7月3日(土)15:00-17:00

● 場所:Miski(阪神電車尼崎駅近くのペルー料理店)

● 報告者:エリカ・ロッシ氏(一橋大学大学院 社会学研究科)

● コメンテーター:菅野 淑氏(名古屋大学大学院文学研究科)


●出席者による研究会レポート

今回の研究会では、前回研究会までの課題として提起された、他者との出会いの契機、あるいはその媒介となるものを探究するため、「音楽」という実践に着目した。研究会のパネラーとして一橋大学よりエリカ・ロッシ氏を招きつつ、尼崎のペルーレストランMiskiを会場に行われた。「移民と場/移民の場―トランスナショナルな音楽の観点から」と題された報告は、場所/空間/移民/チチャ音楽/トランスナショナリズムなどをキーワードに展開された。

エリカ氏によれば、チチャ音楽とは、1960年代~80年代にかけてペルーのアンデス地域から海岸の都市部に向かって移住した、ペルー国内の移住者によって生み出した音楽である。よってチチャ音楽は、「移住者の音楽」とも呼ばれている。

これらの移住者が集住したのは都市(リマ)の貧困地域であり、都市に生きる多くの人々にとっての生活文化の中に息づいていた。そして80年代~90年代にかけてラテンアメリカの経済危機と治安危機を背景に、ペルーから各国への移民が増大するにつれて、その音楽文化も脱領土的に移動することとなった。

エリカ氏は、これまで議論されてきたラテンアメリカからの移民の越境現象だけではなく、それに伴う音楽の「動き」、あるいは「移動性が提起する場」も同様に重要視している。だが、それは「トランスナショナル」か「ホームランド」かの二分法によって区切って考えられるものではない、特別な「場」である。

彼女が挙げるのは、アルゼンチンのブエノス・アイレスほか、北南米各地へと移住しながらペルー系の料理屋と洋服屋を営みながら音楽活動を行っているインディオ系ミュージシャン、トゥミの事例である。経済危機をきっかけに、各国を移動しはじめた彼によれば、自分にとっての音楽は、「才に富んだあらゆる行為か声が、村(pueblo)に由来し村(pueblo)に向かう」(セサル・バジェホの言葉からの引用)ものなのだという。

8時間にもわたったインタビューの中で、トゥミは「僕は有名になりたくない」という点を強調し、インディオ音楽の系統を紹介するとともに、音楽活動による経済活動や成功を志向しているわけではないということを明かしたという。彼にとって音楽とは、単にインディオへの帰属を訴える民族的なものであるというよりは、むしろ、自身の自由な表現につながるためのものであり、ニューヨークにいる家族や自身が生まれあらゆることを学んだ「村(pueblo)」を想起するものなのである。

こうした音楽実践を紹介する過程で、エリカ氏は、特定の「場」や「文化」そのものに対する帰属意識や一体感といったものを「音楽」がもたらすという一面的な理解に疑問を投げかける。その上で、トゥミの事例において構築されていたのは、音楽実践という行為の過程で、当事者自身のライフストーリーや、当事者を取り巻く関係性も含めた様々な意味が身体的な次元で問われるような、「身体化された場」であったと述べる。当日は、この概念をめぐる深い討論までには至らなかったが、この概念は、移民音楽の実践をみる際に、単に国境を越える/越えないといった見方ではなく、よりパーソナルに、かつより深い意味で、音楽によって媒介された人びとの生が身体から繰り出され、それが充溢していくような空間の位相を指し示しているように思える。エリカ氏によって提出されたこの概念は、他者との出会い、あるいは他者との媒介となる音楽を考える際に非常に興味深いものである。

最後に、こうした「身体化された場」と他者との出会いをめぐる議論を、個人的なエピソードも交えつつ述べてみたい。

私たちは音楽を通じて他者と出会うことは可能だ。だが、音楽を通じた出会いとは、いったいどういった出会い、あるいは、つながりだろうか、といった内容までは日常的にはあまり問われていないように思える。というのも、特に異文化理解をめぐる文脈では、他者との出会いが賛美されるとはいえ、むしろその「出会いありき」のために「エスニック音楽」が動員されがちだからだ。

確かに、国境を越えた形で移民音楽は今日も生きられている(コメンテータの菅野氏はまさに、西アフリカの音楽/ダンスが日本に埋め込まれた際の変化を語ってくれた)。ラテン系音楽についても、日本におけるエスニック・コミュニティが開催するフェスタ、あるいは、日本人の支援者が行う多文化祭りなどで耳にする機会が増えてきた。だが、そうした空間に内在しつつも、「彼らの音楽」として、遠くから眺める「わたしたち」は、いかにその空間に参与していたとしても、果たしてそれを「身体化」していると言える深みにまで達しているのだろうか。当然、そこには人びとによって濃淡があり、深い人もいれば浅い人もいるだろう。

つまり、移民音楽が流れる「場」には、独自の磁場があり、そこで各々はその音楽と「付き合って」いる、あるいは、その磁場に対する「付き合い方」が要求されると言える。たとえば、地域の小さな日本語教室が集会所で開催するようなパーティイベントで、プログラム終了後も会場に残ったペルー系の人たちが音楽を鳴らし踊りの輪をつくりはじめると、「いや、まだ居たいんですけど、家事もあるし、私にはそんな踊りとか無理ですから…」と引き気味になって帰宅支度をはじめるボランティアのおばちゃんたちがいる一方で、「ラテンノリいいですねぇ!」などといい、一緒にダンスに交じる初見のお姉さんもいる。あるいは音楽も踊りもわからないけれど、彼らが歌い踊り終わるまで椅子に腰かけながら、ただじっと、「付き合う」だけのおっちゃんもいる。

あるいは、音楽も踊りも何度も何度も見聞きしてきたが、「ラテンノリ」には、未だに正直、「のれ」ないけれど、輪になっている「お馴染み」のおっちゃん・おばちゃんたちから、Baila!Baila!(踊ろう!)とのうれしそうな呼びかけに、引き込まれるまま、まわされるままになる、私のような下手くそな踊り手もいる。だけど、そうしているうちに、ちょっとずつリズムがとれるようになると、ちょっと笑えたりする。そうすると、輪にいるほかの人も笑ってみてくれる。でも、そんな風に調子をこくと、また足がこんがらがって上半身と下半身がバラバラになるような感覚と共に身体がカチコチになって動かなくなったりする。それでまた笑われてしまう。正直、恥ずかしいことこの上ないが、フィールドを訪れるたび、彼/彼女らには御世話になっているだけに、こうした身体を通じて彼/彼女らと共に感じられる喜びは、毎回、どこか新鮮に感じられる。…そう思いつつも、目の前で笑いながら踊っている彼/彼女らの息子・娘たちの姿は、この場には全くといって見えなかったりすることが同時に頭をよぎる。この人たちの息子・娘たちは、いまどこで何をしているのだろうか、と。

ささやかな例ではあるが、こんな風に人びとがさまざまな「付き合い」方をとるところに、移民音楽が「身体化された場」は存在しているのではないだろうか。移民音楽がストリート的な雰囲気を持っていることは確かだろう。けれども、それをトランスナショナルか、ホームランドか、といった現象的な問いに還元してしまうのではなく、むしろ、その磁場の周囲にいる人びとと音楽との関わり方をみていくことで、音楽によっても媒介されない他者、あるいは、媒介されていく新たな他者との出会いへと迫っていくことができるのではないか。このように、移民音楽の場をめぐる人びとの関係性をみつめることは、複数の他者が同時多発的に存在していることを想起させてくれる。それははからずも、ストリート空間の意味そのものを問うことへと繋がっていくのではないだろうか。今後の課題としたい。


文:稲津 秀樹(関西学院大学大学院社会学研究科 博士課程後期課程)

posted on 2010-07-27    

【案内】共同研究「東アジアのストリートの現在」第10回研究会

投稿者:「東アジアのストリートの現在」研究班

「東アジアのストリートの現在」班では、2010年7月3日に第10回研究会を行います。ぜひご参加ください。


● 第10回研究会「Transnational Sound or Homeland Sound? ─ 移民音楽が生みだす〈場〉と〈空間〉─(仮)」

● 日時:7月3日(土)15時~(2~3時間程度)

● 場所: Miski(阪神電車尼崎駅近くのペルー料理店)
      http://www10.ocn.ne.jp/~miski/access.htm

※今回は研究会テーマであるTransnational Soundの実践の場での開催です。(実践者も参加予定)公開研究会ですのでどなたでも参加できますが、会場の収容人数には限りがあります(18名程度)。参加を希望される方は、研究会後の懇親会の出欠とあわせて6月末までにGPオフィスに連絡をいれ、キャンセルのないようにお願いいたします。
 連絡先→ soc-gp@kwansei.ac.jp


●報告者:エリカ・ロッシ氏(一橋大学大学院 社会学研究科)

プロフィール:以下参照
  http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/wakate/detail.cgi?ID=24

●コメンテータ:菅野 淑氏(名古屋大学大学院文学研究科)


●概要:

 まちの雑踏をすり抜ける際にどこからか聞こえるフォルクローレの音─振り向けば、路上系のアーティストに交じって、アンデス系の衣装を着た人びとの演奏隊がそこにいることに気づく。たとえば、こうした≪音≫を聞いた際に、懐かしい、と郷愁の念をもって捉えるか、TVの映像でみた南米のエキゾチックな自然を重ねるかは、聴者の立場によるだろう。だが、そこには確実に、国境を越えて移動する人びとがおり、彼ら彼女らが生みだす≪音≫が埋め込まれたところには、常に、新たな関係/場が作りだされていることは確かだ。

 多様なポジションに位置している複数の他者を媒介する≪音楽≫という実践が意味するものの探究を行う。それにより、移民の音楽実践が生みだしている風景=≪ストリート≫における「出会い」の意味を身体から再考することを目指す。たとえば、移民音楽のある風景は、国境を越えた出会い=トランスナショナルなものを生み出しているのか、あるいは、当事者にとってのホームランド、部外者にとっての異国=を再生産する出会いとなっているのだろうか…。

 ペルー移民の音楽実践が専門の報告者と、在日アフリカ系ミュージシャンを研究対象としたコメンテータをはじめ、数名の当事者を招きつつ、上のような問いを起点とし、本研究会をはじめてみたい。それにより、移動する音楽実践者たちと、≪音≫によって媒介された人びとのあいだで生み出される多層な風景=≪ストリート≫、そしてそこに語られずとも表出しているであろう、移動する人びとにとっての多様な「生」の在り方が語られることになるだろう。

posted on 2010-06-21    

【レポート】「東アジアのストリートの現在」第9回研究会「商店街としてのストリート ― 監視・多文化・観光のまなざしの交錯」

投稿者:稲津 秀樹(関西学院大学大学院社会学研究科 博士課程後期課程)


日時:2010年3月6日(土)13:00~17:30

場所:TKP大阪梅田ビジネスセンター

本研究会は、ストリート班がこれまで開催してきた研究会での問題意識を引き継ぐ形で次のような問いの下、開催された。すなわち、①ストリート研究はいわゆる「マイノリティ」実践の研究に限定されるのか。②「マジョリティ」(「私たち」)にとっての「他者」との出会い/他者との疎外状況は如何に生み出されているのか。

ストリートを巡っては何かと社会の「周辺」を巡る問いが提出されがちであるが、このテーマを敢えて中心的かつ具体的なフィールドから考えるために、我々にとって身近であるが、どこか遠く感じられる「商店街」という場/空間を研究会のテーマとして設定した。


文:稲津 秀樹(関西学院大学大学院社会学研究科 博士課程後期課程)


写真1:報告者。左から朝田氏、安井氏、八木氏。

写真1:報告者。左から朝田氏、安井氏、八木氏。


写真2:コメントする五十嵐氏と参加者

写真2:コメントする五十嵐氏と参加者


※より詳しい報告は「商店街としてのストリート ― 監視・多文化・観光のまなざしの交錯」をご覧ください。

posted on 2010-04-28    

【レポート】共同研究「東アジアのストリートの現在」第8回研究会「アニメ聖地となる<ストリート>」

● 報告者:川端浩平(関西学院大学大学院社会学研究科大学院GP特任助教)


● 第8回研究会『アニメ聖地となる<ストリート>』

● 日時:2010年1月24日(土)13:00-17:00

● 発表者:

・松本真治(鷲宮町商工会経営指導員):
   『萌えアニメによる新しい町おこし』

・岡本健(北海道大学国際広報メディア・観光学院観光創造専攻 博士課程):
  『情報化時代の旅行コミュニケーション~埼玉県鷲宮町の土師祭「らき☆すた」神輿の事例から~』

・谷村要(関西学院大学大学院社会学研究科大学院GP RA):
   『「趣味」を包摂する場としての「アニメ聖地」』

● コメンテーター:森川 嘉一郎(明治大学国際日本学部 准教授)


●出席者による研究会レポート

本研究会でもっとも印象に残り、かつ自分の問題意識と接続したのは、「アニメ聖地」の舞台となっている埼玉県鷲宮町の商工会長の認識と発表者でもあった商工会でまちづくりを進めている松本真治氏の言葉であった。まず、商工会長の認識とは、アニメ聖地の試みを長期的に継続するとは考えられないというものだ。もう一つは、松本氏の発表で述べられた、まちづくりのとりくみをはじめたのは「ノリ」であったという言葉だった。まちづくりの中心的役割を果たしている両者の認識と言葉は鷲宮における試みの将来を暗示しているのだろうか。

まず、商工会会長の認識が示しているように思われるのは、アニメのまちづくりは現在の地点での起爆剤として、地域経済や住民たちを元気にするだろうということ、しかし同時にそれが永続的なものではないことはあらかじめ分かっているのだ、ということである。確かに、これがきっかけとなって、何かしらの新しい展開はおおいに期待できるところだろう。何よりも、ロマンチックに熱く何かにとりくむほうが、「どうせ何も変わらない」とシニカルになるよりは遥かに積極的であるように感じられるに違いない。

そのような熱さを帯びた松本氏の発表で印象に残ったのが、「ノリ」でまちづくりをやっているということである。そのことをプレゼンする同氏はどこかポジティヴで、また個人的に強くコミットしているのだという気概が伝わってくる。いっぽうで、そもそも彼もしくは他の商工会のメンバーたちが、まちづくりのコンテンツとなっているアニメ『らき☆すた』のファンであったわけではない。また、鷲宮が舞台になっているとはいえ、地域社会やそこで生活している人びとのローカルな歴史や文化との有機的なつながりがあるわけでもない。むしろ、たまたま『らき☆すた』の消費者たちの強い関心がその舞台となっている鷲宮に向けられ、その眼差しに乗っかっていくことに可能性を見出しているといえるだろう。

そのような眼差しとはどのようなものなのだろうか。永続的なとりくみではない、だけれども何もしないよりは遥かにポジティヴであろうという「ノリ」に対して巡礼者たちはどのような眼差しを向けているのか。たしかに、自分たちの好きな『らき☆すた』というバーチャルな世界と現実世界が結びつく楽しみと、バーチャルとリアルが繋がることによって存在論的な安心感が得られるのだろう。バーチャルの外に出て、地域住民の人びとと交流することは新鮮だし、「他者」との出会いは何かこれまでとは異なる喜びを与えてくれるだろう。

そのいっぽうで、コメンテーターの森川嘉一郎氏は、彼の撮った写真に写った鷲宮町とオタク文化との奇妙な出会いが共存していることに対するシュールさを強調していた。何気ない田舎町の地味な食堂とアニメのコラボレーション。これは異なるもの同士の出会いなのか、もしくはそこにはある種の非対称的な関係性が存在しているのだろうか。それは誰にも分からないし、今後の鷲宮でのとりくみの結果を見守っていくしかない。

「地方」や地域社会の疲弊が言われて久しい。打つ手のない自治体は日本全国無数にあるだろう。そのときに、それぞれのまちで生活する人びとにはどのような選択肢があるというのだろう。「どげんかせんといかん」とロマンチックに何かやるのか、「どうせ何も変わらないから」とシニカルになるのか。あるいは両者には通底した感覚があるのだろうか。近代へ再帰的/反省的なとりくみとしての成熟化した社会を志向するまちづくりや村おこしが、真の意味でユニークかつ個々の地域住民のローカル性を反映させるような試みへと導かれていることが期待される。そのためには、近代をさらに推し進めていく時代を生きる僕たちが生活する場所と人びとを冷静に見つめなおし、反省を十二分に活かすことが求められている。


文:川端浩平(大学院GP特任助教)


※より詳細なレポートは下記に掲載する予定です。
■第8回研究会 「アニメ聖地となる<ストリート>」(pdf ファイル)


posted on 2010-03-04    

【案内】共同研究「東アジアのストリートの現在」第9回研究会「<ストリート>としての商店街─監視・多文化・観光のまなざしの交錯─」

投稿者:「東アジアのストリートの現在」研究班

「東アジアのストリートの現在」班では、2010年3月6日に第9回研究会を行います。ぜひご参加ください。


● 第9回研究会「<ストリート>としての商店街─監視・多文化・観光のまなざしの交錯─」

● 日時:2010年3月6日(土)13:00-17:30(予定)

● 場所:TKP大阪梅田ビジネスセンター・カンファレンスルーム8D室
     http://tkpumeda.net/access/index.html

※ 公開研究会ですのでどなたでも参加できますが、会場の収容人数には限りがございます。参加を希望される方は、研究会後の懇親会の出欠と合わせて事前に下記までご連絡いただければさいわいです。(参加無料
  soc-gp@kwansei.ac.jp


● 報告(タイトルは仮題):

「監視の<主体>としての商店街」
 朝田佳尚
(日本学術振興会特別研究員(京都大学))

「観光地化する都市の商店街と「自発的な」活性化ー大阪「新世界」を事例として」
 八木寛之
(大阪市立大学大学院文学研究科 後期博士課程)

「文化接触領域としての商店街―横浜市鶴見区のエスニックレストランより」
 安井大輔
(京都大学大学院文学研究科 修士課程)

● コメンテーター: 五十嵐泰正(筑波大学人文社会科学研究科専任講師)


● 趣意:

 「私たち」にとって身近であって、また文字通りの「通り」=ストリートでもある「商店街」。だが、その〈ストリート〉性はどこまで問われていただろうか。「東アジアのストリートの現在」研究班では、これまで、サブカルチャーの実践者、エスニシティ、野宿者といった、いわゆる「マイノリティ」のフィールドワークの成果から〈ストリート〉を捉え返す作業を行ってきた。今回の研究会では、「商店街」という身近だが、どこか遠くに感じられる空間/場で起きている、出会い/交わり/繋がり、そしてそれらを阻むものの現在をみつめていくことを試みたい。

 なぜ、今、商店街なのか。グローバル化による地殻変動と共に、そこは、旧来の「地域社会」の枠組みでは必ずしも捉えられない、さまざまな背景を持つアクターのまなざしが交錯する空間となっている。「古き良き下町」へのノスタルジーや「エスニック料理」へのエキゾチシズムを持ち込む顧客たち。そして、それら外部のまなざしを受け止めつつ、さまざまな実践を展開してきた店主たち。はたまた、そうした人々を横目で「見守る」監視カメラの視線が意味するものとは、はたして何だろうか。このように様々なアクターのまなざしが交錯する場面に着目しつつ商店街を捉えなおせば、それが位置する「地域」内外のアクターのまなざしを巧妙に受容/消費しながら、生
きながらえていこうとする商店街の現在が見えてくるのではないか。そうした中、旧来の「地域」イメージを越えて、どのようにして「商店街」は、他者をマネジメントするようになっているのだろうか。あるいは、<ストリート>としての商店街に問われるべき、新たな他者性への契機/可能性は、これまでの「地域社会」にとって、ひいては「私たち」にとって、いったい、何を意味しているのだろうか。

 この研究会では、以上のような問いにあらわされる商店街の<ストリート>性をめぐる現在を、監視社会論(朝田氏)、ディアスポラ論・クレオール論(安井氏)、そして観光論(八木氏)を背景にフィールドワークを続ける3名のパネリストによる報告と、グローバル化と都市の再編を専門とするコメンテーター(五十嵐氏)を中心に議論していく。路上への/からの社会学を試みる、第9回研究会は、「商店街」というマジョリティにとって身近であり、かつ、どこか遠いもののようにも思える空間で展開している、<ストリート>の現在へと肉迫することを目指す。

本研究会のチラシ・データ(pdf ファイル)はこちらからダウンロードしてください。

posted on 2010-03-03    

【再掲】【案内】共同研究「東アジアのストリートの現在」第8回研究会「アニメ聖地となる<ストリート>」

投稿者:「東アジアのストリートの現在」研究班

「東アジアのストリートの現在」班では、2010年1月24日に第8回研究会を行います。ぜひご参加ください。


● 第8回研究会「アニメ聖地となる<ストリート>」

● 日時:2010年1月24日(日)13:00-18:00(予定)

● 場所:TKP大阪梅田ビジネスセンター・カンファレンスB1A室
     http://tkpumeda.net/access/index.html

※ 公開研究会ですのでどなたでも参加できますが、会場の収容人数には限りがございます。参加を希望される方は、研究会後の懇親会の出欠と合わせて事前に下記までご連絡いただければさいわいです。(参加無料
  soc-gp@kwansei.ac.jp


● 報告(タイトルは仮題):

『萌えアニメによる新しい町おこし』
 松本 真治
(鷲宮町商工会 経営指導員)

『情報化時代の旅行コミュニケーション~埼玉県鷲宮町の土師祭「らき☆すた」神輿の事例から~』
 岡本 健
(北海道大学国際広報メディア・観光学院観光創造専攻 博士課程)

『「趣味」を包摂する場としての「アニメ聖地」』
 谷村 要
(関西学院大学大学院社会学研究科大学院GP リサーチアシスタント)

● コメンテーター: 森川 嘉一郎(明治大学国際日本学部 准教授)


● 趣意:

 変動するコミュニケーション状況の中で、<ストリート>において誰と誰が出合い(あるいは出会えず)、交わり(あるいは交わらず)、つながり(あるいはつながらず)、その場所性が創発されていくのか?

 本研究会では特にメディアを通じて流通するコンテンツやコミュニケーションが介在した現象に着目し、その問いに迫ることを目的とします。その事例として、「(アニメ)聖地巡礼」を取り上げます。

 「(アニメ)聖地巡礼」とは、アニメファンによるアニメ作品のモデル地域への訪問や旅行を意味する言葉として近年用いられており、この動きを地域振興に活用しようとする市町村が登場しています。埼玉県北葛飾郡鷲宮町はその地域振興が特に「成功」したとされる地域ですが、そこでは、どのような担い手たちが、いかなるプロセスを経てこの現象に関わっているのでしょうか。本研究会ではこの鷲宮町にかかわる実践者・研究者をお呼びし、さまざまな位相からこの問いを考察することを目的とします。

本研究会のチラシ・データ(pdf ファイル)はこちらからダウンロードしてください。

posted on 2010-01-20