【レポート】共同研究「東アジアのストリートの現在」第7回研究会「ストリートと善意」


● 第7回研究会『ストリートと善意』

● 日時:2009年11月7日(土)13:00-17:00

● 報告:

・『「善意」に支えられた「ホームレス支援」の現在 —地方中核都市Y市の事例より』
堤圭史郎 (大阪市立大学都市研究プラザGCOE特別研究員・同 都市文化研究センター研究員)

・『路上とジェンダー —誰にも解放された路上?』』
鍋谷美子 (神戸YWCA夜回り準備会)

・『地方都市A市における「支援」活動 — 「善意」と「運動」のはざまで』』
川元みゆき (関西学院大学大学院修士課程)

● コメンテーター:仁平典宏(法政大学専任講師)


この研究会のテーマ「ストリートと善意」というのは、謎かけに近い。主催側はいったいそうしたテーマをどこまで確信犯的に投げかけているのかと、参加した方々はいぶかしんでおられたかもしれない(私自身も主催側のひとりだが)。「テーマを見ておもわず、ストリートに善意なんかねぇよ、と」、「よくわからない、なんだか恥ずかしくなるようなテーマ」と、その違和感に言及してくださった方もいた。

<善意>(英語でいえばkindnessとかbenevolenceが近いか?)とは、研究会のkey ideaとしてもやっかいだが、われわれの日常で出会う善意というのも、かなりやっかいで鬱陶しい。ヨカレと思ってやっていることが、その行為のあて先となる人には決してヨイという保証はないはずなのに、善意というのはどこかそのことを忘れがちだ。野宿者を支援するという行為をささえるのも<善意>ならば、「地域の安心・安全な暮らし」のために野宿者を公園から排除する行為を支持するのも<善意>。

Y市内の地域ボランティアグループの支援活動では、それぞれのメンバーの活動意識にはそうしたある種の<善意>と、既存の日常的な対面関係のベースがあった(堤報告)。かれらは社会運動の理念的語彙で「ホームレス問題」をとらえるのではなく、あくまで見知った人のあいだでの日常のもろもろの出来事とそれへの対処を重ねていた。また、A市では学生・教会の関係者や農場経営者、学生らで組織された支援団体が、月一度の炊き出しとミーティングという活動からスタートする。しかし支援団体はやがて、夜回りにも活動を広げるとともに「運動団体化」していく(川元報告)。もともと運動体として組織されたわけではないこうした地域の小規模な動きは、その面々だからこそそうなる、というような固有の集まりと活動とを展開しているがゆえに、キーパースンがいなくなれば、活動状況も劇的に変化しうるという側面がある。行政との人的リンクの有無も大きい。そこには、顔の見える場をベースにした取り組みの強さと弱さがみえる。

社会運動がなんらかの社会的に<善>なるものを追求するのだとしたら、上記のような地域の小規模な取り組みは、そうした公的<善>への希求とは異なった、関わる人びと各々の<善意>によって支えられる。だから、なにかのideologicalな<善>へコミットせずとも活動にはコミットできる。しかし一方で、<善意>は、公的な議論で鍛えられることがないゆえに非常に脆く、しかし先験的な普遍性を帯びたものである。したがってそれを(支援のあて先にあたる人や一緒に活動にかかわる人に)拒否されると、たちどころに撤退せざるを得ないような性質をも持っているのではないかと思う。

顔のみえる場は、ある<善>の実現に向けて目的特化したassociationとはちがった、普通の人としての出会いや交流を生む可能性をもつ。一方で、そうした関係のなかで生じる暴力は、暴力を受けた者にはいっそうの衝撃を与えるのかもしれない(鍋谷報告)。世の中のあらゆる社会集団や関係はドミナントな価値構造に浸されているが、そうした構造に収奪されやすい場や人びとはある。暴力をふるわれたり、「暴力をふるわされたり」する。そのような場面を、具体的にどのように乗り越えていくかはまだわからない。顔のみえる関係やによって支えられた取り組み(「ボランティア」)と、社会運動との境界は、こんにちかつてほどに明確ではない。ここでの議論は、あらゆる「運動体」が共有できる問題でもある。


文:白石壮一郎(大学院GP特任助教)


※より詳細なレポートは下記に掲載しております
第7回研究会 「ストリートと善意」(pdf ファイル)


posted on 2009-12-03