【レポート】関西学院大学社会学研究科大学院GP 共同研究班研究合宿


●日時: 2010年7月30日(金)夕方 ~ 8月01日(日)ひる

●場所: 関西セミナーハウス(京都)


7月の終わりに、2泊3日の日程で大学院GP共同研究班の研究合宿がおこなわれた。社会学研究科大学院GPではこれまで、大学院生・研究員の企画・運営によるふたつの共同研究班「東アジアのストリートの現在」(代表:稲津秀樹、谷村要)、「〈承認〉の社会学的再構築」(代表:吹上裕樹、平田誠一郎)が、学内外から報告者・コメンテーターを迎えた公開研究会を開き、議論を重ねてきた。この「夏合宿」は、それぞれの研究班のメンバーである大学院生・研究員の報告を中心とし、これまでの研究会に参加していただいた学外の若手社会学者の方々にコメンテーターをお願いして構成した。

この「夏合宿」のねらいは、共同研究班メンバーである大学院生・研究員各自に、これまでの研究内容を草稿の段階で報告してもらい、この先「論文」の形に仕上げるまでの指標とモチベーションを得てもらおうというものだった。

各報告は、いずれも質的な記述をともなった事例研究だ。方法は文献・文書資料の言説分析やフィールドワークをおこなったものなどさまざまである。いずれにしろこうした事例研究は、それをどのような理論的な文脈に位置づけて論じるのかが考えどころだ。学外からお招きしたコメンテーターの方々には、この理論的文脈付けに関してのサポーティブなコメントを各報告についてしていただき、そのうえで、草稿ブラッシュアップのための全体的な議論をおこなった。

こうして研究科外の大学院生・若手研究者と対面的な議論を「合宿」形式で集中的におこなうことは、大学院生の研究のモチベーションを刺激し、最終的な成果にしあげるためにはたいへん教育的効果の高いものだと思う。この「合宿」のあとに、報告内容をまとめ、ジャーナルに論文投稿した参加者もいる。そのほかの報告も、この先修士論文や、年度末までに刊行予定の共同研究成果論集(『KG/GP社会学批評』別冊)におさめられる論稿としてまとめられる予定だ。


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※ 研究合宿のプログラムと要旨集(pdfファイル)はこちらからダウンロードしてください。

文責: 白石壮一郎(大学院GP特任助教)

posted on 2010-09-29    

【案内】共同研究「<承認>の社会学的再構築」第7回研究会「ジェンダーと承認」


● 日時:6月27日(日)13:00-17:00

● 場所: 関西学院大学 社会学部棟3F 大学院1号教室

● 報告者:守 如子氏(関西大学社会学部准教授)

● 概要

男子高校生がクラスで友人たちとポルノグラフィを取り巻きながら談笑している。その姿を遠巻きに見ている女子がいる。このような日常的な光景が指し示す、「男はポルノを読むもの」「女はポルノを読まないもの」という暗黙の性規範が社会的に容認されているという実感を誰しも抱いたことはあるだろう。だが、中には「どうして男だからといってポルノを読まなければならないのか?」「どうして女だからといってポルノを読むことが認められないのか?」と感じる人もまた存在している。では、ポルノグラフィという「娯楽」商品を消費するうえで生じてしまう男女間の偏った性の<承認>をどのように考えるべきなのだろうか。


守氏は、これまでのフェミニズムによるポルノグラフィ批判運動が行ってきた「ポルノは女性差別である」という論調が男性の性的な能動性確保のために女性の性欲を受動的なものとする「性の二重規範」であると批判する。そこで、ポルノグラフィを男/女という図式に還元するのではなく、攻め(身体的快楽を与える側)/受け(身体的快楽を与えられる側)という観点から男性向け/女性向けポルノグラフィの比較分析を行う。そして、ポルノグラフィをめぐる女性の多様な経験の記述と、その支配構造を明らかにし、「体験の肯定的な語り方」を模索する。

本研究会では「女とポルノ」というテーマをもとに、単純な性差別批判とは異なる日常生活にはらむジェンダーと承認という問題系について討議する。

posted on 2010-06-22    

【レポート】共同研究「<承認>のフロンティア研究会」第6回研究会「ポスト・フォーディズム時代における承認を考える」

投稿者:吹上裕樹 (関西学院大学大学院社会学研究科博士課程後期課程)

 

講師:渋谷望(千葉大学文学部准教授)
日時:2010年2月28日(日)13:00-17:00
場所:関西学院大学上ヶ原キャンパス  社会学部棟3F 大学院一号教室

 

渋谷さんの議論のまとめ

 渋谷望さんの議論はある意味非常に明快でした。まず、「赤木智弘論文」の検討からはいり、そこでの主張が承認と配分の両方の問題に関わることが指摘されます。これはつまり、新自由主義的な政策による安定的就労条件からの排除という問題(配分の問題)と、同時にそうした排除の経験の苦しさを世間に分かってもらえないという問題(承認の問題)とが重なり合って存在しているということでした。ところがこれを単に配分だけの問題と捉えて権利要求するとなると、世代間の利害をめぐる、あまり実りのない争いに陥ってしまいます。

 渋谷さんはこれに対し、経済成長世代である親世代には、確かに現在よりも配分的条件が整っていたとしても、はたして承認の問題はどうだろうかと問いかけます。「アキハバラ事件」の背景にもふれながら渋谷さんは、かつてから日本社会においては、何かの目的に照らして人が評価される、「条件付の承認」しか与えられてこなかったのではないかといいます。例えば子どもであれば学校でよい成績をとることで親から認められ、社会人になればその生産能力によって世間から認められるというように。こうしたメリトクラシー社会(竹内洋)において承認は、それが与えられる/与えられないといった二元コードに規定された、ゼロサムゲームになってしまいます。そうした条件付きの承認をめぐって争いあう社会では、人間の尊厳を賭けたゲームが一元化され、それ以外の選択肢が見えなくなる傾向が生まれます。そこで渋谷さんは、そうした条件付ではない、人がただ人としてあることで認められる「無条件の承認」がいかに可能であるかという方向に議論を移行させます。

 渋谷さんはガッサン・ハージの描く横断歩道の挿話を引きながら、こうした無条件の承認は社会的に与えられるべきものであるといいます。ハージが描くのは、レバノン移民のアリが横断歩道を渡ろうとしたときの体験です。レバノンで自らの人間としての価値が否定されてきたアリは、オーストラリアで横断歩道を渡ろうとする自分のために車が止まってくれたという端的な事実によって、人間としての尊厳を回復することができたといいます。こうした挿話がユートピア的な感慨を私たちにもたらすことは、逆に言えば私たちの社会において、人が人として認められる、このような最低限の条件が満たされていないことを意味します。本来、基本的な生存の条件を保障された上ではじめて人間的な活動に従事することができるというのに、私たちの社会では食うために働くことが強制されているように見える。つまり「働かざるもの食うべからず」といった言葉に象徴される気分が、私たちの社会には蔓延しているように感じられるのです。

承認班の今後の展開に向けて

一つ目として、渋谷さんは日本ではかつてから条件付の承認しか与えられてなく、それはメリトクラシー社会に内在する問題であると指摘されたのですが、それでは現在における社会は、かつてと変わらないメリトクラシー社会として捉えるだけでよいのか、という疑問が生まれます。これは承認の問題を現代的な課題として考える本研究班にとって重要な問題といえます。こうした疑問へのとっかかりとしては、渋谷さんもふれていたアキハバラ事件の加藤被告の言葉があげられるかもしれません。

 加藤被告は事件前、ネットの掲示板などへ、自分がモテないこと、友達ができないことについて悲観する書き込みをしていました。これを承認感の欠如と表してよいのですが、ここで求められている承認感というものは、(もちろん非正規の不安定な職を経験していた彼が正規雇用による安定的な生活が保障されたいという条件を含んだものであるとしても)あまりにも人とのコミュニケーションへの願望が肥大化したものに思われます。コミュニケーションへの欲求、とりわけモテる/モテないというような究極的に縮減されたゲームにおける承認への欲求からは、現代において承認の条件とされるものがかつてとは異なるものになってきているのではないか、あるいは条件は変わらないのにそれを言い繕うモードが変わってきているのではないか、という示唆を得ることができます。

 二つ目はそうした現代的な承認をめぐる問題のジェンダー差に関する問題です。今回議論された赤木論文にしてもアキハバラ事件の加藤被告についても、すべて承認の問題とされるものは、男性(とりわけ若い)の問題として議論される傾向にあることがわかります。確かにかつてのメリトクラシー社会(≒生産中心主義社会)においては、労働の現場においても社会的な価値の上でも男性的なものが求められる傾向にありました。そうした価値観がここにきて求められにくくなっており、それに伴い男性らしさの価値の危機が叫ばれることは理解できます。しかし、いくつかの場所において上野千鶴子氏も指摘するように 、男性的なものに対する擁護の姿勢は現に根強く、赤木氏や加藤被告のジェンダー観が男性中心主義の価値を脱し切れていないということはいえると思います。

 こうして承認をめぐる問題は、はたして男性的な問題としてのみ扱われてよいものかという新たな疑問が浮んできます。女性における承認の問題とはどのようなものなのか、それは男性の承認をめぐる問題とどこまで切り結ぶことができるのか。今後はこうしたジェンダー差への目配りとともに、渋谷さんが示唆する承認の条件を規定するものについて、また承認を求める語りに読み取れるモードの変化について、引き続き考えてゆくことがもとめられるように思います。

吹上裕樹 (関西学院大学大学院社会学研究科博士課程後期課程)

posted on 2010-03-31    

【レポート】共同研究「<承認>のフロンティア研究会」第5回研究会「<地元現象>から承認を考える」

投稿者:谷村要(関西学院大学大学院社会学研究科大学院GPリサーチアシスタント)


講師:轡田竜蔵(吉備国際大学社会学部専任講師)

日時:2010年1月30日(土)13:00-17:00

場所:関西学院大学上ヶ原キャンパス 全学共用棟二階GPレンタルラボ


いわゆる「地元志向」が若者たちに広がっていることが統計データから見てとることができる。グローバルな雇用流動化やトランスナショナルな労働力の移動が活発化する傾向のなか、なぜ「移動しない」ことを選択する若者が増えているのか。本研究会のゲストの轡田氏は、地方私立大学(X大学)出身の地方圏在住者26名への聞取りに基づいた知見からその現象を分析している。

 X大学は「非選抜型大学」(※)であることに加え、地方には大卒でなければならない職種の雇用が少ない。そのため、出身者の多くが従来の高卒の職種に流入し、幾人かはホワイトカラーの職種にこだわるゆえに不安定雇用に甘んじなければいけない状況にある。このように「地元」に留まることにデメリットがあるにもかかわらず、出身者の多くは地元就職にこだわる。なぜだろうか。

※非選抜型大学:事実上志望者をほぼ全員受け入れる「全入」状態の大学。「極端な言い方をすれば、学力的に最底辺のレベルであっても入学が可能である」。そのため、「1990年代初頭であれば」「高卒就労をしていた層で」入学者の半分が占められているという。

インフォーマントの語りを通して見えてくるのは必ずしも「地元志向」に関する従来の議論には当てはまらない「生」のあり方である。たとえば、「安定志向」であり「堅実」さを示すものとして「地元志向」は語られることがあるが、地元の状況は必ずしもそのような職種へと若者たちを導いていない。また、地方とはいえ消費環境はそれなりに整っていることにより、消費社会に包摂された感覚を彼らが持っていることや、過酷な労働環境ゆえに「実家」や「地元つながり」を存在論的な、あるいは経済的な包摂を必要とする若者たちの姿がそこにある。轡田氏の調査結果から見えてくるのは、決して明るくない見通しを語りながらも、「それでも『地元生活』がもたらすささやかな包摂の感覚によって、ぎりぎりのところで生活を支えている当事者のリアリティ」である。

このような若者たちの「リアル」について、彼らを満ち足りたマジョリティか排除されたマイノリティかという問いや、保守的かクリエイティブかという問いで見てもイメージが二分されるだけで生産的認識はもたらされないとする轡田氏の議論には説得力があったように思う。

轡田氏の議論では、「実家」の存在を存在論的にも経済的にも「地元志向」へ若者たちを誘う大きな要素として捉えていた。一時期「パラサイト・シングル」としてバッシングを受けていた実家に住まうというライフスタイルが、「若者の甘え」でなく生きるために必要なものとして確かに存在している。それが果たして次の世代へとつながる再生産性を持つものなのか、ポスト「成長世代」ゆえに受けられる恩恵なのか。この点についてもさらに議論をしていく必要があると感じた。

また、それに関連して轡田氏が指摘していたことで興味深かったのはこの「実家志向」には少なからず「男の宿命」というジェンダー観が関係しているということである。実際、女性は男性に比べ移動志向が強いケースが見られるという。「承認」問題を捉える上でこのようなジェンダーの問題も見逃すことはできない。

このように轡田氏の議論からは様々な視座を得ることができたが、轡田氏はノンエリート層のみならず、ローカルエリート層への調査・分析を現在進めているという。こちらも非常に興味をひくものであり、今後の成果に期待したい。

報告者:谷村要(大学院GPリサーチアシスタント)

posted on 2010-03-04    

【案内】共同研究「<承認>のフロンティア研究会」第6回研究会「ポスト・フォーディズム時代における承認を考える」


● 日時 2010年2月28日(日)13:00-17:00

● 会場  関西学院大学上ヶ原キャンパス 社会学部棟3F 大学院一号教室
http://www.kwansei.ac.jp/Contents?cnid=3334

※ 公開研究会ですのでどなたでも参加できますが、会場の収容人数には限りがございます。参加を希望される方は、研究会後の懇親会の出欠とあわせて事前に下記までご連絡いただければさいわいです。
soc-gp@kwansei.ac.jp

● 講師:渋谷望(千葉大学文学部准教授)

● 研究会の内容

 <承認>を求める若者たち。「結婚がしたい」「世間から認められるまっとうな生活をしたい」という彼らの声からは、現代の社会状況に対する強烈な不満を認めることができる。しかし、そうした不満はいったい何によってもたらされたものなのか、またそれはどこへ訴えてゆくべきものなのか。これらの問いが不明確なまま、不満の矛先は自分よりも恵まれた状況にあるとみなされる他者に向かって横滑りしてゆく。今回のゲスト渋谷望氏は、ポスト・フォーディズム時代における資本と労働とのかかわりをラディカルに問い直す議論を展開されている。氏の議論を通して、社会の流動性と再帰性が高まる時代における<承認>をめぐる困難について、改めて考え直すことをめざす。

posted on 2010-02-25    

【案内】共同研究「<承認>のフロンティア研究会」第5回研究会「<地元現象>から承認を考える」


● 日時 2010年1月30日(土)13:30-17:00

● 会場  関西学院大学上ヶ原キャンパス 全学共用棟二階GPレンタルラボ
http://www.kwansei.ac.jp/Contents?cnid=3334

※ 公開研究会ですのでどなたでも参加できますが、会場の収容人数には限りがございます。参加を希望される方は、研究会後の懇親会の出欠とあわせて事前に下記までご連絡いただければさいわいです。
soc-gp@kwansei.ac.jp

● 発表者:轡田竜蔵(吉備国際大学社会学部専任講師)

● 研究会の内容

 近年ますます厳しくなっている地方の経済状況。それにもかかわらず地元にとどまろうとする、いわゆる「地元志向現象」は、なぜ起こっているのだろうか。地方の若者の実情を多少なりとも知っている人ならば、地元を積極的に志向する条件が、そこに揃っていないことは自明と思われる。そこでは魅力的な「専門職」がほとんどなく、非正規の不安定な労働を強いられる場合が多い。彼らが地元を志向する理由としては、友人関係という存在論的な安心感、親元にパラサイトできるという経済的な安心感の二つが考えられる。しかしそうした理由は、彼らが戦略的に地元を選び取る要因というよりも、それ以外の選択肢から彼らが排除された結果とみなすこともできる。

 轡田氏は、「地元志向」を積極的に語る若者らの語りを詳しく取り上げる中で、実際には彼らの語りが、どうしようもなく投げ込まれた自己の宿命的な状況を、彼らなりに反転させたものであることを浮かび上がらせる。本研究会ではこうした地方の若者を取り巻く実情を知り、さらにそうした状況を克服してゆくためのエンパワーメントが、「地元」という場を足がかりに、いかに可能であるかを問う。

posted on 2010-01-27    

【レポート】共同研究「<承認>の社会学的再構築」第4回研究会「私的領域における承認と現代日本」

投稿者:谷村要(関西学院大学大学院社会学研究科大学院GPリサーチアシスタント)

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講師:鈴木謙介(社会学部助教)

日時:2009年11月28日(日)13:00-17:00

場所:関西学院大学上ヶ原キャンパス 社会学部院1号教室


第4回研究会は、本学助教・鈴木謙介氏を招いて開催された。鈴木氏は、ネット・コミュニティやグローバリゼーション、若者をめぐる現在など様々なテーマについて、社会理論を用い考察された著作を複数世に問われている。本研究会では、「承認」問題を軸に若年層が「承認」を得られる場の可能性について論じていただいた。


まず、「承認」問題をめぐる日本の現状について検討するところから議論は始まった。

「承認」は「政治的承認(権利要求、アイデンティティ・ポリティクス)」と「意味的承認(コミュニケーション、他者との差異化)」の二つに分けることができる。鈴木氏が論じたのは、この両者はときに葛藤を引き起こすが、日本では1970年代から特に後者を求める傾向が強かったことで前者の問題(マイノリティやジェンダー間の非対称性など)が不可視化、あるいは分配構造の問題が意味追求の問題へとすり替わる事態が引き起こされていることであった。そして、それが「ロスジェネ論壇」における混乱――政治的承認の問題と意味追求の問題が未分化で語られる事態――につながっていることが指摘された。

また、日本における「承認」問題を複雑にしている背景として、日本の現状が欧米における後期近代の理論モデルと異なる要素が見られること、さらに「ポスト・フォーディズム」以降希求されるようになった「クリエイティビティ」が挙げられた。

日本の現状が欧米の理論モデルと異なる要素としては、(1)欧米に比べ産業の構造変動が進んでいないこと(日本では1975年以降第三次産業の比率がそれほど高まっていない)、(2)国家福祉でなく企業福祉が中心であったこと(「正社員」であることで生活が保障される)、(3)70年代の世界的変動を企業の自助努力で乗り切ったこと(結果、労働者は自分の立場でなく会社の立場を守るために働くことになった)、(4)移民の受け入れの抵抗が強かったため、サービス経済(「感情労働」)が国内資源(正社員コースからこぼれた若者)で賄われたこと、が挙げられる。これが2000年代の若者の苦境につながっているが、一方で「ポスト・フォーディズム」以降、「クリエイティビティ」が一様に若者たちに要求されるようになっている。しかし、これもまた「正規コース」に乗れない若者たちの「一発逆転」や「承認」の言説に回収されており、自己責任論や「やりがいの搾取」につながっているという。

この現状に対して必要な処方箋としては、セーフティーネットの張り直しや、個々人がクリエイティビティを発揮できる環境づくり(EX:企業内ベンチャーを活性化するためのインキュベーション)が挙げられるが、それに加えて、このような「公的な支え」と「自己責任」の間をつなぐ「社会」領域の再生(宮台真司氏のいう「社会の厚み」に該当するもの)が提言された。この「社会」領域の再生について、鈴木氏はサブカルチャーを通じた「承認の場」の形成をその具体案として提示する。ゆえに、以下に展開されるのは、「意味的承認」に焦点を絞ったものであることを断わっておく。


さて、では、なぜ「承認の場」が必要となるのか。


鈴木氏は1970年代以降の日本の消費社会化以降、顕在化した「自分探し」の消費=「消費による自己実現」――それは1980年代、消費を通じた「革命」を志向していた――では若者が満たされなくなった現状を二つの漫画の比較から指摘する。たとえば、岡崎京子の『Pink』(1989 マガジンハウス)では自身の消費生活を守るためならば売春することもいとわない「タフ」な女性が描かれる。しかし、矢沢あいの『NANA』(2000~ 集英社)では、消費だけでは「自分」が確立できない不安が描かれている。1980年代において、消費を通じてアイデンティティを形成する「これがわたし!」から、消費の残余としての「どうせこんなわたし」が前面化したゼロ年代の姿をそこに見出すことができる。

さらに「承認の場」が求められる証左として提示されたのが「家族」を巡る意味の変容である。鈴木氏は統計データを用いながら「家族は大事」という意識が1970年代以降高まり、さらには労働時間も下がっているにもかかわらず、現実の家族に対する満足度や家族と過ごす時間が低下している現状を説明する。それは「家族」の意味変容と関わりがあるという。

1970年代後半以降のTVドラマからは、家族に求められているのが「再生産の場」としての機能でなく「安らぎの場」であること、そして、それが家族の理念モデルとなっていることが見出せる。すなわち、現実の家族でなくメディア上で表彰される「理念」としての家族を我々は「家族」像として思い描くようになった、というのである。

さらに、1990年代以降のメディア作品からは、「家族」でなく「家族のような理想の関係」が希求されていることが見出せる。1990年代の少女漫画、また2000年代の美少女ゲーム・ケータイ小説では「疑似家族」「家族形成」モチーフが頻出している。たとえば、2000年代を代表する美少女ゲームである『AIR』(2000 Key)では、少女とその叔母とが「ほんとうの家族」になる過程を描いた作品であるし、『CLANNAD』(2004 Key)では父子家庭に育った男性主人公がヒロインと結ばれ家庭を築いていく過程で、周囲と「家族」のような関係をつくることが必要となっている(そこには主人公と不仲であった父親も含まれている)。

ここからは家族のような絆の中での癒しを求めている日本の若者たちの志向が見出せる。このような絆を感じることのできる癒しの場の一つとして鈴木氏は「ジモト」的なものを提示する。この場合の「ジモト」とは宮藤官九郎の作品(EX:『木更津キャッツアイ』)にみられるような地元のつながりに限定されるものでなく、ネット・コミュニティを通じた連帯が含まれる。

ネット・コミュニティでは様々な趣味の分野において消費を通じた連帯が見られるが、それはアドホックではありながら絆性をもったものである。現在の若者では、一方で流動性への不安を示しながらも、一方で流動性を望む志向が見られるという。そのような人々に適合した「マルチレイヤー」なアイデンティティの形成のためにも、アドホックでありながら集合性を持ち、代替可能でありながらも持続可能性ももったつながりとして、ネット・コミュニティ並びにサブカルチャーによる連帯が有効であることを鈴木氏は指摘した。


さて、鈴木氏の議論をこれまでの<承認>研究班での活動に引き付けて考えるならば、やはりアイデンティティを巡る問いにつながるように思われる。鈴木氏は、先にも挙げたように二律背反的な「流動性期待」を若者たちが抱いていると述べた。そういう意味では、特定の趣味や嗜好を通じて限定的なつながりを持ちつつも親密な関係を築けるネット・コミュニティは確かにその不安と期待を満たす上で有効であろう。ただし、鈴木氏も指摘していたが、「バーチャル」な関係性のみで果たして前述した期待が満たされるかというと、必ずしもそうでないように思われる。そこには常に「切断されるかもしれない不安」「見られていないかもしれない不安」が常についてまわり、「流動性不安」がきわめて高いからである。

そういった不安を解消する処方箋として、ネット・コミュニティでは「リアル」で直接会う「オフ会」(オフライン・ミーティングの略語)を定期的に開くなどしていたのではないか。鈴木氏が期待するのはそのような「リアル」でのつながりを持つためのツールとしての「ネット・コミュニティ」であった。

「リアル」で会うことでアドホックなつながりが別のつながりに発展することもありうる――私自身、ネット・コミュニティをこれまで研究の対象としてきたが、そのようなつながりがオフ会で築き上げられる場面は何度も見てきており、鈴木氏の主張する「わたしたち消費」やサブカルチャーによる連帯の効用には深く頷くところがある(それはときに民族や世代の壁すら乗り越えるときがある!)。しかし、一方でそこからもこぼれおちる人々(ネットにおいても「ジモト」を作れない人々)に対してはどうすればいいのか。それが課題として残る。

鈴木氏の示された論点は多岐にわたっており、しかも、これまでの<承認>研究会において議論されていなかった領域に及ぶ、大変刺激的なものであった。本研究会で示された様々な位相において複雑な<承認>問題をどのように捉えるか。本研究会の今後における大きな課題であろう。

報告者:谷村要(大学院GPリサーチアシスタント)

posted on 2009-12-17    

【案内】共同研究「<承認>の社会学的再構築」第4回研究会


● 日時 2009年11月28日(土) 13:00-17:00

● 会場  関西学院大学上ヶ原キャンパス 社会学部棟院1号教室
http://www.kwansei.ac.jp/Contents?cnid=3334

※ 公開研究会ですのでどなたでも参加できますが、会場の収容人数には限りがございます。参加を希望される方は、研究会後の懇親会の出欠とあわせて事前に下記までご連絡いただければさいわいです。
soc-gp@kwansei.ac.jp

● 発表者:鈴木謙介(関西学院大学社会学部助教)

● 研究会の内容

本学助教の鈴木謙介先生を迎えて、第四回承認班研究会を行います。鈴木先生は、グローバリゼーションや情報化の社会理論、若者を取り巻く現在などさまざまなテーマの著作を複数、世に問われております。また、「文化系トークラジオ Life」(TBSラジオ)や「青春リアル」(NHK教育テレビジョン)といった番組などを通じて若者にコミットした活動を展開されております。

本研究会では「若者と承認」「ネットやサブカルチャーを通じた承認」に焦点を当てた報告をしていただく予定です。研究者であり実践者でもある鈴木先生から提示される視座は、ゼロ年代の「承認」問題を考える一助になるはずです。

posted on 2009-11-24    

【レポート】第三回「<承認>のフロンティア研究会」─「ヒロシマはどこに向かっているのか?:体制翼賛型少数者(モデル・マイノリティ)として承認されないために」


講師:東琢磨(音楽評論家)

日時:2009年10月25日(日)14:00-17:00

場所:関西学院大学上ヶ原キャンパス 社会学部院1号教室


今回のゲスト、東琢磨氏は、ジャズ、ラティーノ・アメリカ音楽、沖縄音楽などを得意とする音楽評論家として活躍され、また地元広島についてのエッセイ集『ヒロシマ独立論』の著者としても知られる人物である。氏の専門領域・知識は多岐に渡っており、今回の研究会でのレクチャーにおいても、カーボヴェルデ、マイアミ、ニューヨークそして広島へと、次々と世界を横断しつつ展開される語りに圧倒させられた。とはいえ、私たちとの質疑を交える中、やはり「広島」という場を軸とした、いくつかの運動とその課題についてが、今回のテーマの中心として浮かび上がってきたと思われる。

はじめに東氏は、「広島」を中心に展開される平和運動への、ある違和感を表明する。それは、二十年以上生まれ故郷を離れていたという氏が、久しぶりに故郷に帰って見た平和運動の「進歩してなさ」、あるいはそうした古い運動の様態そのままに、それらが「オバマジョリティ」といわれる、世界政治に迎合的な姿勢を見せていることに対するものであった。

東氏によると、広島での初期平和運動は、詩作などを通じた芸術表現を行ったり、被爆者同士がグチを言い合うというような、相互扶助組織を中心としたものであったという。しかし、こうした運動は後に、そのような相互扶助的なものに代わり、制度的な補償を要求する政治団体が中心となっていき、そこでの言葉づかいも、法や医療・科学のものに置き換えられていく。その結果、かつてあった平和運動の相互扶助的な機能は失われ、「広島」は高度に国家に対する「承認」を要求するまちとなっていったという。

それに対して、「オバマジョリティ」現象にみられる今日の状況は、もう少し込み入った(あるいは単純化された)問題を含んでいると考えられる。オバマ大統領は、プラハでの演説において、「核なき世界」を目指す、という趣旨の演説を行ったが、広島市を中心として、この演説の内容に共鳴を表し、私たちの声が「世界の多数派=マジョリティである」ということを宣伝するキャンペーンを行っている。だが東氏は、こうしたキャンペーンに対して、被爆したまちに生きる「マイノリティ」である広島の人々が、「マイノリティ」として連帯するのではなく「マジョリティ」と名乗ってしまうことに、ある「気持ち悪さ」を感じるという。

東氏は、行政的な運動と、市民的な運動が一体化し、さらに世界的な「マジョリティ」であることを欲望し、それを目指していくことに、相当の憤りを感じている様子であった。この東氏の憤りを「承認」ということに照らして僕なりに理解するとすれば、これは歪んだ「承認」への欲望であると考えることができるだろう。

「承認」には、公的・制度的なものから承認を受ける/与えられるということと、親密な共同体における相互の承認というものが考えられる。広島の初期平和運動において行われていたのは、まさに後者のほうであろう。またそれらが後には、前者を目指すものに、つまり国家からの、法的・制度的な承認(=補償)を求めるようになっていったと理解できる。それに対し、今回の「オバマジョリティ」現象で見られる事態からは、そうした公的・制度的な承認の問題と私的な領域における承認の問題とを、一気に飛び越えてしまうような、短絡的な承認への欲望が見て取れる。

本来であれば、広島という地域ひとつとっても、そこに生きる人々の間には無数の差異、多様な利害が含まれるはずである。親密な領域での承認とは、おそらく、同じ地域に生きる人同士が、そういった多様な意見ないし利害を持ち寄って対話を重ねる中でなされてゆくものなのだと思う。けれども、「オバマジョリティ」運動の巧妙な(?)点は、その有無を言わせぬスローガンとオバマ大統領という世界的に認知された権威とによって、親密/公的領域を問わず、あらゆる対話をぬきに、そこにある種の承認が与えられてしまうことだろう。ただし、ここでの承認というものは、自分たちが「マジョリティ」として承認されたいという非常に私的な欲望が、オバマ大統領という公的な権威に投影されたものにすぎないのであるが。

一方、このとき一番問題となるのは、東氏が繰り返し強調していたように、市民的な運動が担うべき「批判勢力」がいなくなってしまうことだ。「核廃絶は世界の願い」をスローガンに、行政が中心となり、しかも市民的な運動を包摂しつつ展開される「マジョリティ」キャンペーンは、そうした政策に反対する立場の人々を非常に苦しい立場に追いやってしまう。なぜなら、今の政策・政治体制に反対することは、その意図はどうあれ、「世界の願い」に反する勢力としてレッテルが張られてしまうからだ。

東氏の問題関心は、こうした「オバマジョリティ」の問題だけにかぎらず、「広島」というまちが、絶えずこうした公的、あるいは国家的なシンボルの役割を担わされてきたことに向けられていた。平和といえば「広島」、核といえば「広島」ということで、何らかの複雑な事態を縮約する機能を、このまちは歴史的に担わされてきたわけである。それに対して東氏は、先述したように、あくまで「マイノリティ」として、そこに生きる人々を中心にしてものを考えること、そしてまた別の場所に住む他のマイノリティの人々との連帯を築いてゆくことを目指してゆくべきと考えているようであった。

これは現在においては非常に難しい課題なのかもしれない。広島の問題からは少しはみ出すけれど、現代に生きる私たちは、自明視できるような「ムラ」や「クニ」といった共同体を持たず、自分自身を測りうるアイデンティティをどこにおくべきかも定かでない。そうしたとき、どこまでを自らの問題として引き受ければよいのか、もっというと何を自らの問題として考えればよいのかさえ、分からない状況に陥ってしまっている。

とはいえ、私たちがそれぞれの場所に、今を生きていることに違いはなく、おそらくは、それとは気づかれない、おもわぬ場所に、社会との(他者との)接点が転がっているかもしれない。今回、東氏の口からは、そのような、人と人、場所と場所との、ハッとするような連関=リンクが語られ、大変刺激的であった。

東氏は今回、主に広島を中心として語られたわけであるが、承認班としては、この研究会から得られたことを自分たちのテーマや課題と引き付け、様々な現代的事象を通じて思索し続けたいと思う。

報告者:吹上裕樹(博士課程後期課程)

posted on 2009-11-23    

【レポート】「〈承認〉のフロンティア研究会」第四回読書会

Z.バウマン, 『リキッド・ライフ』(報告者:吹上)

日時:2009年9月7日 13:00-16:00

場所:関西学院大学上ヶ原キャンパス 社会学部棟院生控室

     

本日9月7日(月)午後から、承認班読書会「バウマン『リキッド・ライフ』を読む会」がおこなわれました。

バウマンの社会理論の基本的な認識・用語(個人化・消費主義・ソリッド/リキッドの区別)の説明を簡単に行った後、本題の第二章「殉教者から英雄に、英雄から売れっ子に」について発表していきました。

論旨は割合明快に伝わったと思われますが、そこからどのような議論が敷衍されるかについてメンバーそれぞれの視点を打ち出してゆくかたちで話し合いが行われました。

その中では主に、「有名性」と社会とのかかわり方の変容を捉える視点、犯人/被害者、有名/無名などの区別が生み出す排除の問題などについて意見が出されました。

その他、「体感治安」に関する問題など話題は多岐にわたりましたが、最後に今後の予定の変更を話し合って締めとなりました。

報告者:吹上裕樹

posted on 2009-09-14