【レポート】共同研究「<承認>の社会学的再構築」第4回研究会「私的領域における承認と現代日本」

投稿者:谷村要(関西学院大学大学院社会学研究科大学院GPリサーチアシスタント)

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講師:鈴木謙介(社会学部助教)

日時:2009年11月28日(日)13:00-17:00

場所:関西学院大学上ヶ原キャンパス 社会学部院1号教室


第4回研究会は、本学助教・鈴木謙介氏を招いて開催された。鈴木氏は、ネット・コミュニティやグローバリゼーション、若者をめぐる現在など様々なテーマについて、社会理論を用い考察された著作を複数世に問われている。本研究会では、「承認」問題を軸に若年層が「承認」を得られる場の可能性について論じていただいた。


まず、「承認」問題をめぐる日本の現状について検討するところから議論は始まった。

「承認」は「政治的承認(権利要求、アイデンティティ・ポリティクス)」と「意味的承認(コミュニケーション、他者との差異化)」の二つに分けることができる。鈴木氏が論じたのは、この両者はときに葛藤を引き起こすが、日本では1970年代から特に後者を求める傾向が強かったことで前者の問題(マイノリティやジェンダー間の非対称性など)が不可視化、あるいは分配構造の問題が意味追求の問題へとすり替わる事態が引き起こされていることであった。そして、それが「ロスジェネ論壇」における混乱――政治的承認の問題と意味追求の問題が未分化で語られる事態――につながっていることが指摘された。

また、日本における「承認」問題を複雑にしている背景として、日本の現状が欧米における後期近代の理論モデルと異なる要素が見られること、さらに「ポスト・フォーディズム」以降希求されるようになった「クリエイティビティ」が挙げられた。

日本の現状が欧米の理論モデルと異なる要素としては、(1)欧米に比べ産業の構造変動が進んでいないこと(日本では1975年以降第三次産業の比率がそれほど高まっていない)、(2)国家福祉でなく企業福祉が中心であったこと(「正社員」であることで生活が保障される)、(3)70年代の世界的変動を企業の自助努力で乗り切ったこと(結果、労働者は自分の立場でなく会社の立場を守るために働くことになった)、(4)移民の受け入れの抵抗が強かったため、サービス経済(「感情労働」)が国内資源(正社員コースからこぼれた若者)で賄われたこと、が挙げられる。これが2000年代の若者の苦境につながっているが、一方で「ポスト・フォーディズム」以降、「クリエイティビティ」が一様に若者たちに要求されるようになっている。しかし、これもまた「正規コース」に乗れない若者たちの「一発逆転」や「承認」の言説に回収されており、自己責任論や「やりがいの搾取」につながっているという。

この現状に対して必要な処方箋としては、セーフティーネットの張り直しや、個々人がクリエイティビティを発揮できる環境づくり(EX:企業内ベンチャーを活性化するためのインキュベーション)が挙げられるが、それに加えて、このような「公的な支え」と「自己責任」の間をつなぐ「社会」領域の再生(宮台真司氏のいう「社会の厚み」に該当するもの)が提言された。この「社会」領域の再生について、鈴木氏はサブカルチャーを通じた「承認の場」の形成をその具体案として提示する。ゆえに、以下に展開されるのは、「意味的承認」に焦点を絞ったものであることを断わっておく。


さて、では、なぜ「承認の場」が必要となるのか。


鈴木氏は1970年代以降の日本の消費社会化以降、顕在化した「自分探し」の消費=「消費による自己実現」――それは1980年代、消費を通じた「革命」を志向していた――では若者が満たされなくなった現状を二つの漫画の比較から指摘する。たとえば、岡崎京子の『Pink』(1989 マガジンハウス)では自身の消費生活を守るためならば売春することもいとわない「タフ」な女性が描かれる。しかし、矢沢あいの『NANA』(2000~ 集英社)では、消費だけでは「自分」が確立できない不安が描かれている。1980年代において、消費を通じてアイデンティティを形成する「これがわたし!」から、消費の残余としての「どうせこんなわたし」が前面化したゼロ年代の姿をそこに見出すことができる。

さらに「承認の場」が求められる証左として提示されたのが「家族」を巡る意味の変容である。鈴木氏は統計データを用いながら「家族は大事」という意識が1970年代以降高まり、さらには労働時間も下がっているにもかかわらず、現実の家族に対する満足度や家族と過ごす時間が低下している現状を説明する。それは「家族」の意味変容と関わりがあるという。

1970年代後半以降のTVドラマからは、家族に求められているのが「再生産の場」としての機能でなく「安らぎの場」であること、そして、それが家族の理念モデルとなっていることが見出せる。すなわち、現実の家族でなくメディア上で表彰される「理念」としての家族を我々は「家族」像として思い描くようになった、というのである。

さらに、1990年代以降のメディア作品からは、「家族」でなく「家族のような理想の関係」が希求されていることが見出せる。1990年代の少女漫画、また2000年代の美少女ゲーム・ケータイ小説では「疑似家族」「家族形成」モチーフが頻出している。たとえば、2000年代を代表する美少女ゲームである『AIR』(2000 Key)では、少女とその叔母とが「ほんとうの家族」になる過程を描いた作品であるし、『CLANNAD』(2004 Key)では父子家庭に育った男性主人公がヒロインと結ばれ家庭を築いていく過程で、周囲と「家族」のような関係をつくることが必要となっている(そこには主人公と不仲であった父親も含まれている)。

ここからは家族のような絆の中での癒しを求めている日本の若者たちの志向が見出せる。このような絆を感じることのできる癒しの場の一つとして鈴木氏は「ジモト」的なものを提示する。この場合の「ジモト」とは宮藤官九郎の作品(EX:『木更津キャッツアイ』)にみられるような地元のつながりに限定されるものでなく、ネット・コミュニティを通じた連帯が含まれる。

ネット・コミュニティでは様々な趣味の分野において消費を通じた連帯が見られるが、それはアドホックではありながら絆性をもったものである。現在の若者では、一方で流動性への不安を示しながらも、一方で流動性を望む志向が見られるという。そのような人々に適合した「マルチレイヤー」なアイデンティティの形成のためにも、アドホックでありながら集合性を持ち、代替可能でありながらも持続可能性ももったつながりとして、ネット・コミュニティ並びにサブカルチャーによる連帯が有効であることを鈴木氏は指摘した。


さて、鈴木氏の議論をこれまでの<承認>研究班での活動に引き付けて考えるならば、やはりアイデンティティを巡る問いにつながるように思われる。鈴木氏は、先にも挙げたように二律背反的な「流動性期待」を若者たちが抱いていると述べた。そういう意味では、特定の趣味や嗜好を通じて限定的なつながりを持ちつつも親密な関係を築けるネット・コミュニティは確かにその不安と期待を満たす上で有効であろう。ただし、鈴木氏も指摘していたが、「バーチャル」な関係性のみで果たして前述した期待が満たされるかというと、必ずしもそうでないように思われる。そこには常に「切断されるかもしれない不安」「見られていないかもしれない不安」が常についてまわり、「流動性不安」がきわめて高いからである。

そういった不安を解消する処方箋として、ネット・コミュニティでは「リアル」で直接会う「オフ会」(オフライン・ミーティングの略語)を定期的に開くなどしていたのではないか。鈴木氏が期待するのはそのような「リアル」でのつながりを持つためのツールとしての「ネット・コミュニティ」であった。

「リアル」で会うことでアドホックなつながりが別のつながりに発展することもありうる――私自身、ネット・コミュニティをこれまで研究の対象としてきたが、そのようなつながりがオフ会で築き上げられる場面は何度も見てきており、鈴木氏の主張する「わたしたち消費」やサブカルチャーによる連帯の効用には深く頷くところがある(それはときに民族や世代の壁すら乗り越えるときがある!)。しかし、一方でそこからもこぼれおちる人々(ネットにおいても「ジモト」を作れない人々)に対してはどうすればいいのか。それが課題として残る。

鈴木氏の示された論点は多岐にわたっており、しかも、これまでの<承認>研究会において議論されていなかった領域に及ぶ、大変刺激的なものであった。本研究会で示された様々な位相において複雑な<承認>問題をどのように捉えるか。本研究会の今後における大きな課題であろう。

報告者:谷村要(大学院GPリサーチアシスタント)

posted on 2009-12-17