【レポート】第一回「<承認>のフロンティア研究会」─新自由主義時代における<承認>を考える
講師:塩原良和(慶應義塾大学法学部准教授)
日時:2009年6月28日(日)12:00-17:00
場所:関西学院大学上ヶ原キャンパス 社会学部院1号教室
今回の研究会は、ゲストである塩原先生のレクチャーに始まり、ネオリベラリズム時代における国家、個人、社会の問題について、様々な事象・事例を取り上げて議論することができた。塩原先生はネオリベラル多文化主義について、とくにオーストラリアを事例にお話をされたが、そこでの議論は日本で生活する私たちの問題関心に照らしても理解できるものであった。とりわけ、グローバル資本主義の拡大を受けて流動性にさらされるミドルクラスの人びとが被る「不安」について、この「不安」のいき先が、パラノイア・ナショナリズムに行きつくことなく、異なった立場に置かれた人々の連帯を如何に築いてゆけるか、というのが議論の焦点として浮かび上がったと思われる。塩原先生は、この連帯への希望を、立場を超えた人々の対話とコミュニケーションに求められていた。
ただ、研究会での私の意見ともかかわるけれど、私の実感からすれば、「個人化」した現代の人々は、自らの地位を保持することに汲々としており、異なった立場の人々への想像力が決定的に閉ざされているのではないかとも思われる。つまり、ボランティアやデモなど、対話と連帯への試みは少なからず行われてはいるけれども、そうした行為自体、まさにボランタリーなものとして、個人的な選択の問題として捉えられてしまうような土壌があるのではないかと。
親密な関係における「承認」の問題が現れるのも、こうした文脈からそう遠い所にあるのではないと考える。他者からの承認がこれほどまで求められるというのは、人々が自己の生を社会によって互いに支え・支えられているということへの想像力が失われてきていることの表れでもあるだろう。私たちは身近な他者からの「承認」をめぐって日々闘争しているとも言えるけれど、そうした日常的なやり取りが、どうしてここまでクローズアップされて来たのか。今後の研究会においては、「承認」の浮かび上がってきた文脈をもう一度整理する必要があると思われる。
報告者:吹上裕樹
※より詳しい内容は「第一回〈承認〉のフロンティア研究会」報告(pdfファイル)をご覧ください。