【レポート】共同研究「<承認>のフロンティア研究会」第6回研究会「ポスト・フォーディズム時代における承認を考える」

投稿者:吹上裕樹 (関西学院大学大学院社会学研究科博士課程後期課程)

 

講師:渋谷望(千葉大学文学部准教授)
日時:2010年2月28日(日)13:00-17:00
場所:関西学院大学上ヶ原キャンパス  社会学部棟3F 大学院一号教室

 

渋谷さんの議論のまとめ

 渋谷望さんの議論はある意味非常に明快でした。まず、「赤木智弘論文」の検討からはいり、そこでの主張が承認と配分の両方の問題に関わることが指摘されます。これはつまり、新自由主義的な政策による安定的就労条件からの排除という問題(配分の問題)と、同時にそうした排除の経験の苦しさを世間に分かってもらえないという問題(承認の問題)とが重なり合って存在しているということでした。ところがこれを単に配分だけの問題と捉えて権利要求するとなると、世代間の利害をめぐる、あまり実りのない争いに陥ってしまいます。

 渋谷さんはこれに対し、経済成長世代である親世代には、確かに現在よりも配分的条件が整っていたとしても、はたして承認の問題はどうだろうかと問いかけます。「アキハバラ事件」の背景にもふれながら渋谷さんは、かつてから日本社会においては、何かの目的に照らして人が評価される、「条件付の承認」しか与えられてこなかったのではないかといいます。例えば子どもであれば学校でよい成績をとることで親から認められ、社会人になればその生産能力によって世間から認められるというように。こうしたメリトクラシー社会(竹内洋)において承認は、それが与えられる/与えられないといった二元コードに規定された、ゼロサムゲームになってしまいます。そうした条件付きの承認をめぐって争いあう社会では、人間の尊厳を賭けたゲームが一元化され、それ以外の選択肢が見えなくなる傾向が生まれます。そこで渋谷さんは、そうした条件付ではない、人がただ人としてあることで認められる「無条件の承認」がいかに可能であるかという方向に議論を移行させます。

 渋谷さんはガッサン・ハージの描く横断歩道の挿話を引きながら、こうした無条件の承認は社会的に与えられるべきものであるといいます。ハージが描くのは、レバノン移民のアリが横断歩道を渡ろうとしたときの体験です。レバノンで自らの人間としての価値が否定されてきたアリは、オーストラリアで横断歩道を渡ろうとする自分のために車が止まってくれたという端的な事実によって、人間としての尊厳を回復することができたといいます。こうした挿話がユートピア的な感慨を私たちにもたらすことは、逆に言えば私たちの社会において、人が人として認められる、このような最低限の条件が満たされていないことを意味します。本来、基本的な生存の条件を保障された上ではじめて人間的な活動に従事することができるというのに、私たちの社会では食うために働くことが強制されているように見える。つまり「働かざるもの食うべからず」といった言葉に象徴される気分が、私たちの社会には蔓延しているように感じられるのです。

承認班の今後の展開に向けて

一つ目として、渋谷さんは日本ではかつてから条件付の承認しか与えられてなく、それはメリトクラシー社会に内在する問題であると指摘されたのですが、それでは現在における社会は、かつてと変わらないメリトクラシー社会として捉えるだけでよいのか、という疑問が生まれます。これは承認の問題を現代的な課題として考える本研究班にとって重要な問題といえます。こうした疑問へのとっかかりとしては、渋谷さんもふれていたアキハバラ事件の加藤被告の言葉があげられるかもしれません。

 加藤被告は事件前、ネットの掲示板などへ、自分がモテないこと、友達ができないことについて悲観する書き込みをしていました。これを承認感の欠如と表してよいのですが、ここで求められている承認感というものは、(もちろん非正規の不安定な職を経験していた彼が正規雇用による安定的な生活が保障されたいという条件を含んだものであるとしても)あまりにも人とのコミュニケーションへの願望が肥大化したものに思われます。コミュニケーションへの欲求、とりわけモテる/モテないというような究極的に縮減されたゲームにおける承認への欲求からは、現代において承認の条件とされるものがかつてとは異なるものになってきているのではないか、あるいは条件は変わらないのにそれを言い繕うモードが変わってきているのではないか、という示唆を得ることができます。

 二つ目はそうした現代的な承認をめぐる問題のジェンダー差に関する問題です。今回議論された赤木論文にしてもアキハバラ事件の加藤被告についても、すべて承認の問題とされるものは、男性(とりわけ若い)の問題として議論される傾向にあることがわかります。確かにかつてのメリトクラシー社会(≒生産中心主義社会)においては、労働の現場においても社会的な価値の上でも男性的なものが求められる傾向にありました。そうした価値観がここにきて求められにくくなっており、それに伴い男性らしさの価値の危機が叫ばれることは理解できます。しかし、いくつかの場所において上野千鶴子氏も指摘するように 、男性的なものに対する擁護の姿勢は現に根強く、赤木氏や加藤被告のジェンダー観が男性中心主義の価値を脱し切れていないということはいえると思います。

 こうして承認をめぐる問題は、はたして男性的な問題としてのみ扱われてよいものかという新たな疑問が浮んできます。女性における承認の問題とはどのようなものなのか、それは男性の承認をめぐる問題とどこまで切り結ぶことができるのか。今後はこうしたジェンダー差への目配りとともに、渋谷さんが示唆する承認の条件を規定するものについて、また承認を求める語りに読み取れるモードの変化について、引き続き考えてゆくことがもとめられるように思います。

吹上裕樹 (関西学院大学大学院社会学研究科博士課程後期課程)

posted on 2010-03-31