【レポート】共同研究「東アジアのストリートの現在」第12回研究会

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●第12回研究会 『”Mess-ing the Streets!?”-「汚れた公共空間」構想のために』

●日時:10月09日(土)13:30-16:30

●会場:関西学院大学社会学部棟 大学院GP事務室

●報告者と報告タイトル:

松村 淳 (関西学院大学大学院社会学研究科博士課程前期課程)
「阪神御影地区におけるジェントリフィケーションの進行と再領有化の試み」

白石 壮一郎 (関西学院大学大学院社会学研究科特任助教)
「1980年代国立大学新々寮反対闘争にみる再領有の実践」

●コメンテーター:

松原 康介氏(筑波大学大学院システム情報工学研究科助教)

岩舘 豊氏(一橋大学大学院社会学研究科博士課程/日本学術振興会)


●概要:

公共空間や公共性という語彙は、1990年代なかば以降の都市(再)開発のキーワードとしてしばしば目に触れる。そこでの「公共空間」は「安全・安心な市民の暮らし」というイデオロギーと表裏一体のものとして打ち出されているように思える。再開発後の都市空間において公共空間として演出されているのは清潔で透明で、「公共的」な活動を機能的にaffordすることを目指しているように見えながら、その実、「市民社会」の外部には排除の牙をむく。そこでは「安全・安心な市民の暮らし」を保障する公共空間の内実はほとんど問われないままだ。強烈に伝わってくるのは、公共空間はクリーンでなければならないというオブセッシブなメタ・メッセージだけである。

こうした公共空間のクリーン・アップは、再開発される街の設計のなかに織り込まれている(松村報告)。そうした設計の是非を問うのもさることながら、この研究会で着目したいのは人びとの活動がそうした設計をいかに食い破っていくことが可能なのかという「実践(practise)」を問うことだ(白石報告)。社会学の研究のなかで、こうした実践の意味を中心的に扱ったものは意外に少ない。逆に「汚す」となるとわれわれが即座に想起するのは「割れ窓理論(broken window theory)」のように、「汚し」が公共空間をスポイルするという、よく知られた立論である。

この研究会でいう「汚す」とは、設計された空間(space)に意味を書き込み、場所(place)として領有(appropriate)していく実践を指す。当日の議論で、「汚れた公共空間」の構想を模索し、共有することができればさいわいである。


● 開催レポート:

松村が震災後の駅前・街の公共空間の再編について現地取材にもとづく報告を、白石が歴史的資料から1980年代後半の国立大学学生寮における共同空間の創出の実践についての報告をおこなった。

震災後の公共空間の再編は、あらたな商業資本・不動産業の参入によるドラスティックな景観の変化をともなっていた。この報告では、新たにつくられたショッピングモールやマンションが、ある種のライフスタイルパッケージを用意しポピュラリティを得ようとしているさまや、それと旧商店街との対比が描かれ、そうしたなかで公共空間がどのようにデザインされているかが素描された。議論のなかでは、住民の階層によって、かれらの頭にある街全体の地図に書き込まれている情報が違ってきているのではないか、という指摘や、報告にあったモールの地階に設定された公開空地をひとつの山場とした神輿が、街のどの場所を通ってくるのかという細かな情報を記録してみてはという提案(松原)、など、都市空間の再編にこめられる意味を読み解きやすくする方法として、独自の地図を複数作成するやり方が提起された。

政策によって「個室アパート化」された1980年代後半の国立大学学生寮で、住人たる寮生たちは共同性を獲得するための諸々の実践を展開した。パノプティコンを髣髴させる寮舎構造の中心部を占拠し、大学側の管理の構造を逆転させ、寮生たちは廊下、個室、炊事スペースなどの空間に自分たちの生活イベントを定着させるさまざまなな仕掛けをつくっていく。それらは、かれらの「居場所」を創出するための共同性を取り戻す運動だったが、通常の社会運動と大きくちがう点は、生活に密接した「楽しさ」を原動力にしたアイデアや工夫が随所に盛り込まれたある種の過剰さを有していた点だ。ここで重要なのは「畳」など共同性の形代(token)となったものの存在であり、これに類するものには野宿者支援活動のなかでの「居場所」の形代になったブルー・シートの例(岩舘)などが議論のなかで挙げられた。

本研究会での報告と議論は、「実存空間」(レルフ)としてのストリートを理念化するさいに重要な参考事例を提供するだろう。


posted on 2010-12-17